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- 三崎荘(中世)とは
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![]() | 三崎荘(中世) 鎌倉末期~室町期に見える荘園名三野【みの】郡のうち詫間町北西部,荘内半島に比定される半島の最先端に「三崎」,生里の南西にのびる小半島先端に「古三崎」,箱の東北にのびる舌状小半島の先端に「箱崎」の呼称がある初見は,鎌倉末期正応6年3月17日の九条家文庫文書目録(九条家文書/鎌遺18125)で,「一合……三崎,惣目録」と見え,九条家領三崎荘に関する一結文書の存在と伝領が知られる嘉元3年4月頃と推定される摂籙渡荘目録(図書寮叢刊九条家文書)に法成寺領の1つとして「三崎荘〈塩浜〉田卅町 年貢油五斗」があげられている南北朝期に入って,暦応5年1月,同じく摂籙渡荘目録(同前)に「房範朝臣三方相論之間,不被究訴陳之最中御上表云々 三崎荘〈塩浜〉田卅町 年貢油五斗」とある藤原房範は南家藤原氏で儒流であり,春宮学士・大内記に任じた「御上表」云々は,暦応5年1月26日関白一条経通の上表が受理され,同月27日九条道教が関白・氏長者となったことをさすものであろう領家藤原房範がその所職をめぐって訴訟の途中に九条道教の摂関家渡領伝領があったことを示すものであろうかまた,今川了俊の「鹿苑院殿厳島詣記」(群書18)は,康応元年3月4日から28日に至る将軍足利義満の厳島社参詣を記した紀行文であり,南北朝末期における内海航路の実態をうかがわせる重要史料であるが,その22日の条には「ともの浦の南にあたりて……箱のみさきといふも侍り 隔て行八重の潮ぢの浦島や箱のみさきのなこそしるけれ」との記述と詠歌がある室町期に入って,康正元年11月24日の日付をもつ懸仏(仁尾町円明院所蔵)には,聖観世音菩薩の種子「サ」の下に「讃州三乃郡三崎庄船越之八幡宮御宝前,奉懸御体之事 右,意楽者,為護持大施主幼童丸部道祖丸無病快楽身心堅固富貴自在寿命長遠并諸大眷属等除災与楽福恵増長心中所願成就円満,殊致精誠処如件 康正元稔〈乙亥〉十一月廿四日 大願主丸部泰家敬白」の銘文が記されているこれと対をなし,勢至菩薩の種子「サク」の下に同一の銘文を記した懸仏が,現在志度町多和文庫に所蔵されているが,これから,詫間町大浜所在の八幡神社(船越八幡宮)もまた三崎荘域内であったことが知られるなお,この丸部氏は,古代三野郡の大領に任じた有力氏族丸部氏の後裔であろうさらに,同じく大浜薬師堂にあった磬にも,「讃州三野郡三崎庄大浜薬師堂常住,寛正三年二月吉日」の銘文があり(新修香川県史),さきの懸仏銘文と同様の事実を示している荘内半島の呼称もまた,この三崎荘荘内たることを示す遺称であろう「南海通記」には筥三崎が香川氏の支配下にあったことを記しているなお,荘内半島の中央部,紫雲出山の北西部には不整形な郭をもつ山城,海崎城があり,応安元年1月以前,海崎豊前守元村の居城であったと伝えられている(西讃府志) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」