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- 穴山村(近世)とは
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穴山村(近世) 江戸期~明治7年の村名諏訪郡のうち宮川に合流する弓振川中流右岸に位置する甲州方面から東北信への下の横道(善光寺道・甲州道)と,八ケ岳連峰御小屋山から切り出した御柱を諏訪上社まで曳行する御柱道が,地内中央部で交差する交通の要衝開発は正保元年,一説に同3年草分は嘉兵衛・仁兵衛,見立奉行は高島藩の重臣塩原三左衛門(金子岩右衛門編旧事記並聞書,諏訪郡諸村並旧蹟年代記/諏叢14)古来諏訪上社の神野であった原野を開発した新田村の一つで,親村はない高島藩領村高は,「元禄郷帳」153石余,「天保郷帳」406石余,「旧高旧領」は穴山新田村として407石余戸数は,享保18年の「諏訪藩主手元絵図」で82,文化13年の家軒書上一札(穴山郷倉蔵)で93交通の要衝に発達した村であるため,寒天・漆器・鋸製造のほか小倉織・足袋製造などの産業が興り,紺屋・大工・石工・家具などの職業も盛んになった特に寒天は,天保11年小林粂左衛門が創業し,信州寒天の基になった産土社は山神社で,正保元年勧請寺院は真言宗清滝山長円寺はじめ山号を要穴山と称し,慶安2年慶尊法印の開基明治4年高島県を経て筑摩県に所属同7年玉川村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」