ケータイ辞書JLogosロゴ 荒町村(近世)


新潟県>豊浦町

 江戸期〜明治22年の村名。蒲原郡のうち。新発田【しばた】藩領。村高は,慶長3年頃の御領内高付帳では荒町村・佐渡川村・長徳寺村として448石余,「正保国絵図」240石余,「元禄郷帳」246石余,「天保郷帳」247石余。寛文7年の成立と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)では,家数40・人数273。新発田から三国街道に通じる街道沿いの宿場として栄え,茶屋や旅籠などがあってにぎわった。また,大庄屋の所在村で,はじめは五十公野【いじみの】組,のち川北組の大庄屋で,長谷川氏・今井氏・阿部氏などが勤めた。曹洞宗蓮華寺がある。口説唄に「嫁にやるなら加治か新発田か五十公野町か,またもござる,木よし水よし足場もよいし,右や左は大庄屋,中の大寺お経の声」と当町の繁栄ぶりが唄われている。枝郷として荒屋敷・久保(窪)・佐々木川(佐々川)がある。久保は,江戸初期に佐々木川を井戸塚(旧米倉村)で締め切り瀬替し,本流を加治川方向に流したため,佐々木川一帯が干し上がり,河川敷の低地が耕地化されたことにより成立した。佐々木川が加治川の本流であった頃には赤橋と久保の間に渡し場があり,直ぐ渡りと称したという。現在も杉渡りの地名が残り,伝承を裏付けている。江戸期から明治前期にかけて太田川沿岸には待場(待張とも呼ばれる川の漁場)があり,川をのぼる鮭や鱒を捕獲した。明治初年頃からは久保に人工孵化場も設けていた。明治12年北蒲原郡に所属。同21年の戸数97・人口545。同22年荒橋村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7305902
最終更新日:2009-03-01




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