ケータイ辞書JLogosロゴ 稲田町(近世)


新潟県>上越市

 江戸期〜明治初年の町名。頸城【くびき】郡のうち。上稲田村(もと稲田村)の村域内で町並みを許された地域。松之山街道やひるこ街道,とくに,高田城下防備政策として奥州街道がこの町を経由することになって栄えた。万治元年,松平光長により上稲田町・稲田竪町が町並みを許され,藩費をもって家屋を建設し住民に貸与し,町名主が1名置かれた。続いて元禄年間に下稲田町が町方支配を許されて稲田三町と称した(新道村誌)。関川には松平光長時代橋幅4間の稲田橋がかけられたが出水により再三流失し,橋幅も狭くなった。また,松平光長時代,小栗美作が関川の川底さらいを行い,板倉村田井川岸まで船の往来が可能になった。これにより,稲田橋南に上の荷揚場,北に下の荷揚場が設けられた。藩では,上の荷揚場隣接地300坪と馬道を出雲・関・府古の3町の馬持に貸し与え,積荷を城下に運搬させた。当町の人別については城下の町人町と同様の町並みとして支配を受けた。寛保2年,稲田町の家数65,下稲田町の家数93。寺院は真宗大谷派光明寺。当町には商家・職人が軒を連ねたが,とくに塩商人が活躍し,特権をもつ小町問屋と抗争した。信州への塩の継送りでも高田宿との間に取決めを結ぶなど稲田塩商の名を高めた(頸城郡誌稿)。明治初年上稲田村の一部となったと思われるが,不詳。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7306425
最終更新日:2009-03-01




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