ケータイ辞書JLogosロゴ 色部条(中世)


新潟県>神林村

鎌倉期〜戦国期に見える条名越後国岩船郡小泉荘のうち小泉荘加納の北部,神林村の西部と村上市岩船が含まれる正応元年12月2日の関東下知状案に「建永之比,本庄・加納地頭各別為請所以来,于今無相違」とあり(米沢色部文書),鎌倉初期,秩父季長は小泉荘地頭に補せられ,建永年間頃嫡子行長に小泉荘本庄,次子為長に加納を譲ったとみられる神林村牧目の東側に小色部と称する場所があり,西側に館跡があることから,牧目が為長の本拠とみられる為長は嘉禄3年4月7日に,小泉荘加納の内色部・粟島などの地頭職を嫡子公長に譲り,公長は同年4月9日に安堵されている(反町色部文書)しかし,この譲渡は行われず,為長は建長6年11月8日改めて公長に,加納内の色部・牛屋・粟島などの地頭職を譲り,公長は翌7年3月27日に安堵されている(同前)また,同年10月27日の関東下知状案によれば,公長は色部を姓としている(米沢色部文書)公長の嫡子清長は廃され,文永7年8月25日公長は次男忠長を惣領として色部条地頭職(反町色部文書),嫡孫長信に粟島の地頭職を譲り(米沢色部文書),牛屋条を作路から東西に分け,東を三男氏長に,西を四男長茂に譲った(米沢古案記録草案)この後,色部条と粟島の地頭職は長信から忠長・長綱・長倫と代々色部惣領に伝えられたこの間,長綱は正和5年4月19日次男高長に色部条内の田・在家を譲り(反町色部文書),高長は飯岡氏の祖となった元弘3年鎌倉幕府が倒されたことから,長倫は10月に色部条惣領職と粟島地頭職安堵の国宣を願い出て,同年12月14日越後守新田義貞から国宣を受けた(同前)その後,長倫は足利方に属し,建武元年7月12日同族小泉持長の城を攻め落とし,8月10日には大川将長の居城樺沢城(山北【さんぽく】町)攻めに加わっている(米沢古案記録草案)南北朝期から室町期にかけて「加納方色部・岩船并粟島之地頭職」が色部惣領分であったが(反町色部文書),文明15年12月13日の色部朝長譲状に当知行地として惣領分・宿田分・浦分・牛屋役が記され,この時期には小泉荘加納全域が惣領の支配下となっていた(光西寺所蔵文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7306591
最終更新日:2009-03-01




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