ケータイ辞書JLogosロゴ 上田荘(中世)


新潟県>塩沢町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。魚沼郡のうち。「吾妻鏡」文治2年3月12日条に「〈院御領,預所備中前司信忠〉於田庄」と見え,後白河院領であった。その後,康永3年10月20日「上田庄内〈闕所未給分〉」が関東管領兼越後守護上杉憲顕の守護領不足分として与えられた(上杉家文書)。憲顕は観応の擾乱で知行地を没収されたが,康安元年10月2日当荘を与えられた(同前)。憲顕の子憲方は,永徳2年12月26日「上田庄参分壱」などを安堵されたが文書を紛失,明徳4年11月28日・同5年2月22日に改めて当荘3分の1と父の遺領上田荘を安堵された(同前)。応永3年7月23日幕府は,憲方の遺領当荘内闕所分と当荘3分の1を子の憲定に引き渡すよう越後守護上杉房方に命じた(同前)。文安元年8月上杉憲実(房方の子)は,次男竜春(上杉房顕)に「越州上田庄并同国々衙半分」を譲り渡した(同前)。当荘内には山城国岩清水八幡宮摂社若宮社の散在所領があったが幕府に没収され,享徳4年2月12日関東管領上杉房顕に還付する旨伝えられた(同前)。このように当荘は上杉氏に相伝されたが在地支配は上田長尾氏が行っており,長禄3年3月15日の快増・重継連署奉書に「千屋郡上田庄之長尾肥前」と見える(内山文書)。永正6年関東管領上杉顕定は,弟の越後守護上杉房能を滅した守護代長尾為景を討つため,7月24日武将に当荘への集結を命じ越後へ進出したが(武州文書/越佐史料),翌年6月20日長森で戦死した(歴代古案/同前)。永正10年には為景と不和になった守護上杉定実に応じて信州から島津貞忠らが侵入,為景は8月5日上田長尾氏の房長を「上田口」の警戒にあたらせ(読史堂古文書/同前),翌年正月16日当荘六日市で定実方に勝利した(上杉家文書)。その後上田長尾氏が為景と対抗するようになったが,景虎(為景の子,のちに上杉謙信)の代に至り上田長尾氏の政景は服従した。景虎は,永禄4年3月11日水損に苦しむ当荘などに徳政令を出して民政の安定をはかり,同5年正月26日関東に備えるため「上田之上大手口路次」の通行を停止し,越山には直路【じきろ】を往還するよう制札を出している(同前)。天正6年御館の乱で上杉景虎(北条氏康の子)の援軍北条氏が当荘へ攻め込んだが,上田衆によって翌年撃退され(歴代古案/越佐史料),上田長尾氏出身の上杉景勝(政景の子)が謙信の後継者となった。当荘は,現在の六日町・塩沢町・湯沢町のほぼ全域にわたると推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7306677
最終更新日:2009-03-01




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