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内野村(近世) 江戸期~明治12年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
内野村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方東部,長瀬川東岸に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは月輪荘に属したという会津藩領川東組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では猪苗代郡に属し448石余,享保3年459石余(小林家文書),文化15年の村日記(県史10下)では458石余,「天保郷帳」443石余,「旧高旧領」400石余寛永年間開村の端村大水沢新田は村の北方荻窪村の境内を隔てて1里の所にあり,江戸末期に当村から分村し,水沢村と改称享保3年の家数63軒・人数214,馬22,文化3年の家数31軒・人数132,馬30(小林家文書)化政期の家数上内野19軒・下内野9軒・大水沢新田5軒(新編会津)鎮守は若宮八幡宮寺院は大永年間小檜山六郎が開いたという曹洞宗巌松山蔵円寺堂宇に猪苗代三十三観音第9番の札所がある村の東部の山腹の墓地内に猪苗代亀ケ城主14代猪苗代盛胤の墓があり,墓石には平盛胤と刻印されている村の北部に苧紡【おつむぎ】坂があり,夜になると山姥【やまんば】の糸をひく車の音が聞こえてきたという伝説がある肝煎は本多家慶応4年の産物は木ノ皮袋(猪苗代町郷土誌稿)明治元年10月村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に帰役願を民政役所へ提出した(小林家文書)明治8年明戸村ほか2か村と合併して八幡村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
内野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
内野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
内野村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
内野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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内野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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内野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
内野村(近世) 江戸期~明治12年の村名県南東部,大宮台地の南端に位置する足立【あだち】郡木崎領のうち羽黒権現社の承応3年の造立棟札に,内野村とあったといい,正保年間~承応3年に木曽呂村から分村したものと思われる幕府領検地は元禄3年,持添新田の検地は享保16年村高は「元禄郷帳」46石余,「天保郷帳」で80石余と増加,これは享保12年見沼新田開発に伴い当村の持添新田が加わったものである村の規模は東西3町・南北8町化政期の家数15軒用水は見沼代用水を利用鎮守は羽黒権現社,ほかに稲荷社・女体権現社・天神社がある寺院は新義真言宗延命山長福寺高札場は北部小名は前ノ原・金崎明治4年埼玉県に所属同9年の戸数25・人口104,馬2,荷車5物産は米・大麦・小麦・サツマイモ・イモ・ショウガ・柿など同12年東内野村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」