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- 上原(中世)とは
「上原(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 上原(中世) 戦国期から見える地名薩摩国入来【いりき】院のうち長享~延徳年間のものと推定される算田日記に「上原の御諏訪領二斗六升蒔」と見える(入来文書)現在は薩摩郡入来町浦之名のうち入来川の支流たる後川内川の下流右岸地区で,標高50mの川岸水田地区より10~20mの高台をなす約500m平方の地区名であるすなわち立地そのままの「上の原」である上原に祀る古代以来の鎮守神の司祭者は,入来文書所収の天正20年10月4日付,入来院重時知行方目録,田中家親宛に記された「岩之上屋敷」の在家であるが,同在家が重臣の門付給地となされたことによって,上原居住の諸在家中において,特にこの岩之上在家が注目すべき在家だったことを知ることができるこの鎮守神社は古代入来院の首長居所と推定されている清色城の最高所,当時の日の出観測所から見て,正しく春分の朝日の出る山上に祀ってあるゆえにこの神社は古代入来院において春分の日の太陽祭をなす重要神だったようである同社は現在も岩之上在家の子孫岩上氏が祀っている |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 上原(中世) 戦国期に見える地名豊後国大分郡荏隈【えのくま】郷のうち現在の大分市上野丘東・上野丘西・上野丘1~2丁目一帯の台地永禄6年,大友宗麟は海部【あまべ】郡臼杵(臼杵市)に丹生島城を構築し,上原館から移ったと見えるのが初見(大友家文書録/大友史料21)「大友家文書録」によると,大友家は代々府内に館を構えていたが,高崎山に築城し,不慮の護りとしていた義鎮(宗麟)の代に至り,館を上原に遷し,永禄6年丹生島城移転後は,嫡男長寿丸(義統)を上原館に置いたというまた,天正6年3月,日向土持征伐のため結集した大友勢が,13日上原館を出発して日向に向かったと述べる(大友家文書録/大友史料24)このように,江戸期に編纂された「大友家文書録」などにだけ「上原館」という字句が見え,史料上では確認できないなお宗麟の時代,館を上原に遷したということも,3代頼泰以来高国府【たかごう】を領有していた事実(志賀文書/大友史料2)から見て検討を要する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」