- JLogos検索辞書>
- 大鋸町(近世~近代)とは
「大鋸町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 大鋸町(近世~近代)
江戸期~昭和5年の町名江戸期は高田城下の町人町の1町明治初年~明治44年は高田を冠称高田城西北,南北に走る西裏町(現仲町通り)に位置する町名の由来は,大きな鋸を...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7307136]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
大鋸町(近世~近代) 江戸期~昭和6年の町名天保期までは京橋川と日本橋川の中間にある入堀に面していた町名は大鋸職人(木挽)が集住した職人町であったことによる入堀に面していた河岸地は桐板屋が多かったので桐河岸【きりがし】と称し(備考),また元禄期以来,婦人妙薬として知られた実母散を売る店があった文久板の切絵図には御用奥絵師狩野永徳の屋敷が記され,南裏通りを狩野新道【かのうしんみち】と称している明治元年東京府に所属同5年の戸数151・人口592(府志料)同11年京橋区に所属昭和6年京橋1丁目・宝【たから】町1丁目に編入現行の京橋1丁目のうちで,新八重洲【しんやえす】ビルの裏側にあたる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」