ケータイ辞書JLogosロゴ 大貫村(近世)


新潟県>上越市

 江戸期〜明治22年の村名。頸城郡のうち。はじめ高田藩領,天和元年幕府領,貞享2年からは高田藩領。村高は,「正保国絵図」302石余,「天和高帳」598石余・新田58石余,「天保郷帳」870石余。地内の臥蛇【がじや】池は周囲6町余の用水池。この臥蛇池の西側を大貫山屋敷と称する。松平光長時代,300石以上の家臣は邸宅のほかに山屋敷を構えるのが慣例で,当地にその山屋敷があったことに由来する。また,この頃から高田藩士の墓地が設けられ,医王寺の薬師堂が隣接することから「薬師の墓地」と通称された。寛文5年の大地震で城下には多大な被害があり,寺町の区画整理が行われ,本誓寺以北の寺院が当村内に移され新たに寺町が整備された。この地域は明治以降中寺町・下寺町として独立する。なお,当村耕地の代替地とされたのが,のちの五分一町である。神社は山王権現・弁才天・稲荷大明神など。寺院は,松平光長の母天崇院(高田姫)の帰依の篤かった真言宗医王寺,同宗観音院,ほか曹洞宗重円寺・浄土宗長心寺(廃寺)・同宗台山院(廃寺)。寺町の日蓮宗浄法寺・真宗大谷派高田別院なども江戸期は当村域内として扱われた。金谷山には,「薬欄にいづれの花を草枕」と刻まれた松尾芭蕉の句碑,国事犯高田事件と銘した自由民権運動の記念碑がある。明治12年からは中頸城郡に所属。同18年勘左衛門新田・寺町新田を合併。同21年の戸数121・人口670。同22年下ノ郷村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307435
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ