ケータイ辞書JLogosロゴ 大面荘(中世)


新潟県>栄町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。越後国蒲原郡のうち。太面・大茂とも見える。荘域は刈谷田川右岸,東山丘陵沿いの三条市南部から栄町・見附市の各一部にわたる。「吾妻鏡」文治2年3月12日条に「〈鳥羽十一面堂領〉大面荘」とあるのが初見。同年6月4日条に「八条院(鳥羽天皇皇女)領」,同年7月28日条には領家「中納言入道」と見える。下って室町期の延徳2年9月15日には「栂尾中坊」が「大面庄領家方」の証文を紛失したとして安堵を幕府に願い出ている(伺事記録/室町幕府引付史料集成上)。この間,永仁5年には日印が「大面庄薄曽根村」に青蓮華寺を建立したという(長久山歴代譜/三条市史資料編2)。これがのちの本成寺で,薄曽根【すすきそね】村とはのちの本成寺村のこと。鎌倉末期には荘内桜森・中村の領主として小諸氏が見える(反町大見安田文書)。元弘4年7月北条時行方についた小諸・林一族は当地で挙兵した(竹内文平氏所蔵文書)。康永3年足利尊氏は相模国河勾荘・常陸国佐都東郡半分と引き換えに,井上俊清が一時帯していた当荘地頭職を上杉憲顕に与えている(上杉家文書)。正平7年8月には南朝方についた村山義盛・方切光義が当地で戦っている(反町村山文書)。応永の大乱の際には,守護方についた揚北の中条勢が大面の要害に陣取ったという(三浦和田中条文書)。応永22年上杉房方は荘内「吉野屋条瀬下分」を毛利安田道元に給与した(反町毛利安田文書)。応永の再乱の直前,長尾朝景が同32年「大面庄内新方条」を,上杉頼藤が同33年「大面庄之内吉田跡并玉虫跡」をそれぞれ和田房資に与え守護方に誘っている(山形大中条文書)。永正の乱後永正7年,長尾為景は「太面庄内村上分薄曽禰并新堀・上条・吉野谷」を,また天文の乱に際し天文2年「太面庄内小森沢分新堀」を本成寺に寄進した(本成寺文書)。永正16年蒲原郡代山吉政久は見付条給人と西光寺弥三郎との間を調停し,「大面庄見付条鞘勝田」を西光寺に,見付条「塩坪・木根田」,屋敷一間を見付条給人に安堵した(上杉家文書)。大永7年大見安田氏は「大面庄帯織条鳥井分」の守護段銭を納めた(反町大見安田文書)。天正5年三条衆給分帳には大面荘内に本所村・平所・北かた・蔵内村・袋村・屋田村・太浦村・小高村・月岡村などが見える(市川浩一郎所蔵文書)。御館の乱後,上杉景勝は「大茂之地」を一時狩野新助に,のち天正12年泉沢久秀に与え,久秀のもとに大面在番衆が編成された(覚上公御書集)。また,天正11年には小幡喜兵衛が当地の江田大蔵分を与えられている(別本歴代古案/越佐史料)。なお,御館の乱では上杉景虎方の丸田伊豆守が大面城に拠って抗戦した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307525
最終更新日:2009-03-01




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