ケータイ辞書JLogosロゴ 大面町村(近世)


新潟県>栄町

 江戸期〜明治22年の村名。蒲原郡のうち。大面町(慶長5年御知行方田畑帳),大面村(旧高旧領)ともいう。はじめ新発田【しばた】藩領,寛政元年からは幕府領。慶長5年御知行方田畑帳に田29町余・畑8町余,物成高は田161石余・畑17石余の合計179石余とあり,新発田藩主溝口秀勝が入部早々当村の検地に着手したことが知れる。村高は,「正保国絵図」320石余,「元禄郷帳」333石余,「天保郷帳」334石余。戸口は,天和3年35軒・263人,明和7年大面組郷帳では61軒・327人。古来集落は大面城麓に位置したが,慶長初年大面城が廃されると,中心は西方低地に移った。その後,三条見附往還が造成され,当地が小規模な宿場町となっていったのは,元禄年間以後のことといわれる。寛政年間には「東の甚九郎,西の伝助」と称された2軒の問屋が開かれ,桐油紙・コンニャク・傘など加茂・三条・見附・栃尾の商品の委託輸送と販売に従事した。問屋甚九郎は旅人宿も兼業し,ほかに数軒の旅籠屋・茶屋が開かれた。新発田藩領時代は大面組43か村の大庄屋がいた。鹿島神社はその大面組43か村の惣鎮守であった。境内の俗称船戸地蔵は大面川水運の安全を守った守護仏で,宝暦元年7代藩主溝口直温寄進の絵馬がある。寺院は浄土真宗本願寺派長念寺があり,西派の総録所を勤めた古刹。慶応4年の戊辰戦争では,大面城の外城である枡形山(砦跡)一帯において米沢藩副総督千坂太郎左衛門が兵350人・砲2門を指揮して政府軍を牽制し,戦場となった。長念寺は臨時野戦病院にあてられ,のち征討総督仁和寺宮彰仁親王(後の小松宮)の休息所になる。明治12年南蒲原郡に所属。同年元大庄屋所跡に大面学校が校舎新築。同22年大潟村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307526
最終更新日:2009-03-01




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