ケータイ辞書JLogosロゴ 鬼木村(近世)


新潟県>栄町

 江戸期〜明治9年の村名。蒲原郡のうち。はじめ新発田【しばた】藩領,寛永5年一部が同藩の分知家である旗本溝口又十郎宣秋知行(24石余,切梅陣屋)・溝口内記宣俊知行(22石,池之端陣屋)・溝口左京宣知(15石余,二ツ堂陣屋)に分与され,万治2年宣知は無嗣絶家となり本藩に返知,元禄7年宣秋も本藩に収公され,以後新発田藩と旗本溝口宣俊家の相給となり,宣俊家知行分は替地鬼木村と称し,明治維新まで続くが,新発田藩領分は寛政元年幕府領,文久元年からは会津藩領となる。江戸前期に鬼木新田を開発して分村し,すでに「元禄郷帳」では当村とは別に村高を付されている。村高は,「正保国絵図」240石余,「元禄郷帳」266石余,「天保郷帳」481石余。延宝年間の家数51・人数302。寛保年間には家数54(本家12・名子28・間脇14),人数332。慶長年間に開発名主六右衛門が創建したという諏訪社のほか,稲荷社,神明社,天満社があり,これらは明治45年に合祀されて鬼木神社となる。寺院は,浄土真宗蓮照寺・智正寺がある。刈谷田川の水害に悩まされた村で,水防のための土居は2,494間,集落を守る内囲は1,102間に及ぶ。このため苧の生産に活路を求めた。字浦町は河港の名残り。「旧高旧領」では鬼木村(会津藩領)416石余,替地鬼木村(旗本溝口氏知行)39石余,鬼木村下組(会津藩領)25石余の3か村に分けて記されており,幕末〜明治初年には替地鬼木村,鬼木村下組が当村から分村し,残余の当村(「旧高旧領」での鬼木村)は鬼木村上組と称するようになっていた。そして,この狭義の鬼木村は,明治9年鬼木村上組と改称する。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307805
最終更新日:2009-03-01




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