ケータイ辞書JLogosロゴ 帯織村(近世)


新潟県>栄町

 江戸期〜明治22年の村名。蒲原郡のうち。はじめ新発田【しばた】藩領,寛永5年同藩の分知家である旗本溝口宣秋(切梅陣屋)・溝口宣俊(池之端陣屋)・溝口宣知(二ツ堂陣屋)の各知行となる。その後,万治2年溝口宣知知行は無嗣絶家のため幕府に上知され新発田藩領地となり,寛文2年からは幕府代官所の直轄地となった。その際,残りの宣秋・宣俊両家は願い出て当村や北潟村などの知行地を上知して井栗村などの旧宣知知行地との替地が許され,当村は全域が幕府領となった。そして,同7年村上藩領,宝永元年幕府領となり,文久元年再び村上藩領となるが,やがてまた幕府領となる。慶長10年給知方村々高目録に毛付827石,あれ236石余,合計1,063石余とある(新発田藩政史料)。村高は,「元禄郷帳」984石余,「天保郷帳」1,064石余。幕府領時代には帯織組が設けられ,片切・山王・梅田・下新田・下鳥・指出・前谷内・安代・茅原・北方・丸田・帯織の12か村を管轄し,大庄屋は滝沢三郎兵衛(水原郷村明細帳集成)。曹洞宗瑞泉寺の本尊正観世音菩薩は,もとは秀吉の側室淀君の守護仏で,家臣浅賀広久の妻女に与えられ,兵乱を避けて当村へ移ったと伝える(瑞泉寺伝)。鎮守日枝神社は修験者伝定院が祀った小祠。5月7日の春祭は「飲めや唄えや山王の祭り」といわれたにぎやかな祭礼(山王の口碑)。格調の高い神舞も伝えられる。江戸後期から滝沢景山・皆川葵園・皆川臨川・皆川和堂・岩崎竹巌・小村恒輔・本竜寺進国などの儒者・医師を輩出した。葵園は片貝村の学塾朝陽館の2代塾長。竹巌は慶応元年筑波山天狗党の乱に江戸取締隊長として活躍。渡辺幸九郎は椎谷藩剣道の師範役で,藩士安達与右衛門以下271名連名の弘化2年の奉納額が日枝神社に残る。明治6年帯織学校創立。同12年南蒲原郡に属す。同21年小谷内村を合併。同年の戸数160・人口799。同22年桜森村の一部が編入し,帯織村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307829
最終更新日:2009-03-01




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