ケータイ辞書JLogosロゴ 柿崎村(近世)


新潟県>柿崎町

 江戸期〜明治22年の村名。頸城郡のうち。はじめ高田藩領,天和元年幕府領,貞享2年高田藩領,寛保2年幕府領,文化6年からは高田藩領。村高は,「慶長国絵図」では柿崎町382石余,「正保国絵図」322石余,「天和高帳」783石余,「天保郷帳」850石余。慶長16年松平忠輝が柿崎駅伝馬の制札を下付。この時の宿役83軒。本陣は天明の頃大黒屋平右衛門(竹越家),天保年間以降は椿屋五右衛門と伝える(河端家)。現旅館業元問屋(平野家)は寛文初年〜宝暦12年問屋業を営む(柿崎町史)。元文3年の家数255,嘉永4年の家数562・人数2,786。明治初年までの町名は新田町・上【かん】町・仲町・水戸町・上大門町・下大門町・旭町・住吉町・諏訪町・新町・小菅町・江戸町・鍋屋町・中裏町・下裏町・あら町・高見町・下町の18町からなる。弘化2年柿崎御用留(嘉右衛門文書)によれば,茶屋稼11・旅籠屋10・質屋7,ほか廻船問屋・酒造店数軒とある。寛永年間舟寄場が設置され,御蔵屋敷(現柿崎駅東方250m)が置かれた。当時廻船業は今町陣屋の管轄下にあったが,幕府領時代はその取締りにも遠慮があり,当地で新造船が建造されている(竹越家文書)。嘉永6年柿崎川河口改修による開港設置が計画され,のち明治5年船付荷揚場の許可を得るや廻船数も急増した。柿崎は北国街道の宿駅としてのみならず,古来米山山麓下に連なる集落を結んで頸城の内陸部に通じる道筋(山の腰街道)の起点にも当たり,また東方米山越えをして刈羽郡に通じる3道の分岐点にも当たった。柿崎川に架かる柿崎橋は架替えごとに領主より青銅1,000貫を下付されたために「千貫目橋」と呼ばれ,柿崎川をもと黒川と呼んだが故に「玄川橋」,旅立つ者が振り返ったので「見返り橋」,太鼓張りの橋であることから「めがね橋」ともいわれた。当初新田町の南端(現柿崎橋より200m上手)に架けられていたが,明治21年住民の反対をおして現在地に架け替えられた。当地に酒造業者が出現したのは寛永年間,やがて在方の集落とともに冬期上州方面へ出稼ぎに出た杜氏・酒男の出身地として有名になる。安政年間柿崎宿より関東方面酒造出店およそ150軒,出稼人1,000人にのぼる(嘉左衛門文書)。柿崎宿は砂丘上に位置するため生活用水の確保に苦労が多く,道路上に十数軒で1本の井戸を掘り共同井戸として利用し,生活共同体の一単位としてきた。水利の便が悪いため火災毎に大火となり,嘉永5年の火災では家数600のうち約500を焼失するなど大火が続いた(柿崎町史)。神社は黒川(玄川)神社・諏訪神社。寺院は,親鸞聖人「川越の名号」の伝説に関わる名刹浄土真宗浄福寺・浄善寺,浄土宗善導寺,日蓮宗妙蓮寺。浄福寺の親鸞聖人報恩講「お引上会」は田植え終了期の6月18日〜23日に開かれ,露天商や見せ物小屋が並び,近在の老若男女でにぎわう最大の年中行事。明治5年浄善寺を仮校舎に柿崎郷学校が開校,同6年郷蔵跡に移り柿崎小学校となる。同12年からは中頸城郡に所属。同13年親松治平が馬車会社を設立,直江津〜鉢崎間を往復した。同21年の戸数647・人口3,776。同22年市制町村制施行による柿崎村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307938
最終更新日:2009-03-01




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