ケータイ辞書JLogosロゴ 加地荘(中世)


新潟県>加治川村

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。越後国蒲原郡のうち。「吾妻鏡」文治2年3月12日条に「加地庄 金剛院領 堀河大納言沙汰」と見える(鎌遺)。荘域は新発田市,北蒲原郡加治川村・紫雲寺町・聖籠町など,加治川中・下流域一帯の地域。建武3年11月18日の羽黒義成軍忠状写に見える「加地庄沼垂湊」から荘域は新潟市東端にまで及んでいたとも考えられるが(鈴木中条文書),ほかに徴証はない。南北朝期成立の「桓武平氏系図」城永基の子長成に「加地三郎」の注記があることから,当荘の開発に城氏がかかわったことが推察される(尊卑分脈4)。「吾妻鏡」に見える金剛院とは,美福門院建立の金剛勝院と推定され,当荘は12世紀前半の鳥羽院政期に成立したと考えられる。なお,同じ頃成立した東大寺領豊田荘関係文書に「加地庄又名豊田庄」などの注記が見られるが,金剛院領加地荘とは別個のものである(東大寺文書)。当荘の領家職は源定房の村上源氏久我流に伝領されていったが,本家職は室町院畴子(後堀河皇女)に伝えられ,「看聞御記」応永25年4月19日条に「室町院領越州梶庄」,同永享3年11月30日条に「室町院領越後国梶庄」と見える。鎌倉初期,佐々木盛綱が当荘地頭に補任された。「吾妻鏡」によれば,盛綱は「越後国所領土産」として建久5年2月に頼朝に鮭を進めている。それ以前の建久元年10月にも,盛綱は遠江国菊河宿にいた頼朝に鮭楚割を献じているから(吾妻鏡),盛綱が加地荘地頭となったのは建久元年10月以前と推測される。盛綱は頼朝の死後,一時加地荘地頭職を失ったようであるが,建仁元年,城資盛が奥山荘鳥坂山で挙兵した際,征討軍の指揮官に任ぜられ,これを滅ぼし,以後盛綱の子孫が加地荘に土着,加地氏を称した。佐々木加地氏の居城としては加治の要害山が知られている。また頼朝の叔父護念上人慈応は加地荘菅谷に不動堂(のちの真言宗醍醐派菅谷寺)を建立した(吾妻鏡建久6年10月11日条)。承久の乱の際,盛綱の子信実は承久3年5月29日加地荘願文山の戦で深匂家賢を破り(吾妻鏡),その後加地氏は加地荘高浜条・荻曽根条・古川条などに分散居住していった(山形大中条文書)。南北朝期に入ると,佐々木加地景綱が足利方の大将として色部氏・羽黒氏などを率いたが(鈴木中条文書),一族の中には南朝方につく者もおり,永和2年,越後守護上杉憲栄は幕府の命令で「加地庄内佐々木備前々司時秀法師跡」を没収,鎌倉円覚寺に寄進した(円覚寺文書)。室町期から戦国期にかけて,佐々木加地氏のなかから新発田氏・竹俣氏・五十公野氏・楠川氏などが分出して荘内に割拠し,また高浜条・桜曽禰条・古河条などは羽黒氏の所領となった(反町三浦和田羽黒文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7307996
最終更新日:2009-03-01




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