ケータイ辞書JLogosロゴ 柏崎(中世)


新潟県>柏崎市

 鎌倉期から見える地名。越後国三島【みしま】郡(のち刈羽郡)のうち。建治2年3月の日蓮書状(日蓮聖人遺文/鎌遺12285)に「かしはさき」,「日蓮上人註画讃」(続群9上)に「柏崎」と見え,文永11年3月日蓮は佐渡から柏崎に上陸した。これ以前のこととして,「准后記」(越後名寄)の木曽義仲の伝承に柏崎の名が見え,平安末期には柏崎が港町として発展しつつあったことを示唆している。当地周辺は比角荘であったらしく,また,周辺には鵜川荘・佐橋荘などがあった。また,三島郡庁や三島駅家が劔野・塔の輪付近(柏崎編年史),もしくは柏崎勝長邸付近(刈羽郡旧蹟志)とされている。こうした諸荘園・諸施設の存在を背景に海港が開かれ,海上交通の要地となったものと推定される。香積寺は,康元元年大檀那柏崎勝長の死去により,その邸宅跡に劔野から移転したものという。正平7年正月の宇都宮公綱(か)軍忠状写によれば,前年宇都宮氏が柏崎で上杉軍と合戦している(小田部庄右衛門所蔵文書)。文明18年には常光院尭恵および聖護院道興が京都から越後を訪れ,柏崎・安田・山室・三桶を経て上野国白井に向かった。秋雨降る8月末,尭恵は「梢もる露は聞ともかしは崎,下はに遠き秋のむらさめ」(北国紀行/群書18),そして道興は「をしなへて秋かせふけは柏崎,いかゝ葉もりの神はすむらん」(廻国雑記/同前)と詠んでおり,比角の羽森(葉守)神社も出てくる。なお,近世まで鵜川と鯖石川の間に広大な沼湖があり,鏡の沖と称した。尭恵の歌に「月かけにいつくあれとさやけさを,かゝみの沖にうつしてそみる」と見える(温古の栞)。長享2年10月関東から柏崎を訪れた僧万里集九は「柏崎市場之面三千余家,其外深巷凡五六千戸」(梅花無尽蔵/続群12下)と柏崎の繁栄ぶりを記す。寛文5年の柏崎の戸数は747戸にすぎないので甚だしい誇張であるが,天文9年の長尾景重書状に「かしわ崎町」の呼称が現われ(歴代古案/越佐史料),戦国期には柏崎が港湾商工都市「柏崎町」として成長している(上杉家文書永禄7年上杉輝虎制札写)。しかし寺院側の記録には「カシワサキ村」(本覚坊文書)とも見える。また,応仁元年・文明10年の刈羽村「善照寺文書」に「柏崎島之道場分」とか,「島之道場分」と同寺の寺領が出てくる。柏崎島は琵琶島と対照される地域名で,単に島とも称し,柏崎市島町付近に比定される。琵琶島・柏崎島は共に鵜川の流れにより形成された中州と推定される。この他,柏崎の地名は,「新編追加」「御前落居記録」「謡曲集」「米良文書」等諸史料に頻出する(柏崎市史資料集古代中世編など)。なお,宮内庁書陵部所蔵の日野家領文書写には「柏崎庄」との荘号も見える。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7308029
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ