ケータイ辞書JLogosロゴ 小出島村(近世)


新潟県>小出町

 江戸期〜明治22年の村名。魚沼郡のうち。元和2年長岡藩領,同4年高田藩領,延宝9年幕府領,文久元年からは会津藩領。村高は,「正保国絵図」161石余,「天和高帳」220石余・新田73石余(うち大塚新田29石余・日渡新田33石余),「天保郷帳」では大塚新田・日渡新田を除いて272石余。天和3年検地帳での反別は,田20町余・畑9町余。農業のほか,男は薪を切り,材木を流送,白布・小白布・縮を売買し,女は白布・小白布・縮を織る。また小出島河岸場より船荷物を背負い駄賃を稼ぐ。山漆・里漆木があり,蝋の実は領主の買上げになる。漁猟も行われ,鮭・鱒・鮎・山女・岩魚・八つ目鰻・雁・鴨などをとる。慶長年間頃から河港が発達し,寛永年間には高田藩が陣屋を設置した。また,高田藩時代は大肝煎が居住する小出島組の組元の村であった。寛永18年上田(大福)銀山が発見された。また,同年陸奥と越後の国境争論がおこり,正保3年越後側の勝訴となった。寛文元年小出島宿の町割が完成し,上町・仲町・下町・御多屋町・柳原町(河岸場町)・横町・浦町などの原形ができた。元禄2年河村瑞賢が只見川の対岸会津藩領に白峰【しらふ】銀山を見立てると,幕府は白峰銀山と上田銀山の支配を瑞賢に命じ,銀産出の半分が瑞賢に与えられたと伝えられる。瑞賢が両銀山を支配した時期は,上田銀山の全盛時代で,「町屋千軒,寺三ケ寺,遊郭三軒,八百八敷」といわれた。小出島宿に居住した有力な銀山商人塩屋伊藤吉右衛門・伊久伊藤久兵衛は伊勢の塩浜から,越前屋松原仁左衛門は越前府中善光寺から,上州屋柳瀬次郎兵衛は上野から,福井屋水野源左衛門は福井から移住した。しかし,宝永年間に入ると鉛の産出が多くなり,銀の産出は激減して宝永3年上田銀山は採掘を中止した。宝暦9年村鑑によれば,家数286,うち百姓家69・水呑家217,人数980,鮭役・小役・大工役・酒役・木挽役・鍛冶役・筒役,材木・竹運上,酒造株4軒,紺屋6軒,観音堂・弁才天・稲荷社があった。寺院は,曹洞宗正円寺・観音寺がある。鎮守は往古から四日町村の諏訪大明神を祀る。文化8年小出島陣屋廃止。同12年願書を代官に提出し,新規に市場を立てる。安政3年松原櫟園が「甲越春秋」4巻を編修し,文久4年発行。元治元年再び小出島陣屋が設置され新築完成し,「小出島三万石の御陣屋」といわれる。慶応4年2月15日郡奉行仮役町野源之助が着陣し,3月村々の庄屋を郷兵に,組頭・百姓代を村兵に任命し,大概村高100石に3人を徴集して,三国峠方面の世直し一揆,新政府軍の来攻を警備する。閏4月24日上越国境で上州方面の新政府軍と激戦し敗退,26日・27日には北陸道先鋒総督府の新政府軍と小出島・四日町で激戦,焼失家屋は133軒におよんだ。27日,会津軍は六十里越えから会津へ敗走した。明治4年ランプが使用される。同6年小出島学校開校。同8年小出郵便局開設。同12年北魚沼郡に所属。同年魚沼製糸会社を創立して生糸を改良する。このころコレラ流行。同15年小出金融社創立。同16年長岡警察署堀之内分署小出島派出所設置。同18年国道清水線開通。同19年蚕糸同業組合事務所を設置。同21年清水川辺神社を建立。同年の戸数372・人口1,938。明治22年小出町村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7309478
最終更新日:2009-03-01




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