ケータイ辞書JLogosロゴ 肴町(近世)


新潟県>村上市

 江戸期〜明治19年の町名。江戸期は村上城下の1町。明治12年からは村上を冠称。鍛冶町の西に続き,町の西端には枡形があり,瀬波町方面からの入口にあたる。羽黒町の枡形からの土居と堀が,飯野を経てこの枡形まで続き,村上城の南西の守りを固めている。瀬波町から枡形までの間は松原8町と称し,松並木があり,城主の入部の正式通路であった。当町は慶長年間鍛冶町の先につくられた。堀氏による城郭拡張の際に鍛冶町裏にあった中貝村を枡形近くに移して馬喰町とし,肴町との間に長岡町が建てられ,安良町から枡形まで家並みが続いた。寛永12年村上惣町並銘々軒付之帳によれば,肴町の家数42,長岡町の家数12,馬喰町の家数41。馬喰町には観音寺があり,41軒のうち24軒は「下組鉄炮衆無役」とある。肴町は元和4年魚商売を免許されている。長岡町は堀氏について長岡から移って来た人たちが居住したものと思われる。のち長岡町は肴町の一部となり,元和初年の村上城図には肴町と馬喰町が記されている。また,榊原氏時代の城下絵図には馬喰町の観音寺の上隣は法顕寺で,下手には家老伊藤忠兵衛下屋敷,向かい側西寄りには同原田権左衛門と村上主殿の下屋敷があり,枡形の前には河内大明神が描かれ,北側に得願寺がある。肴町の南側の奥には真福寺・西宝院・最念寺が記されている。宝永2年村上町方覚には馬喰町はなく,肴町として家数65・竈数140。また,河内大明神は「肴町ノ内馬喰町氏子持」とあり,湯殿山行者観音寺のほかに真言宗最念寺・西宝院・真福寺・弥勒寺の4寺があり,浄土宗得願寺は明き寺となっている。嘉永2年の家数125。町年寄を勤めた播磨屋甚蔵は藩の鮮魚御用達で,俳号を二麓園由章と称し,村上の俳諧史上忘れることのできない人物である。明治5年小国町・鍛冶町・新肴町とともに5番組となる。当町の用掛は新肴町の用掛を兼ねる奥村弥平。同19年村上町の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7310007
最終更新日:2009-03-01




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