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- 肴町(近世)とは
「肴町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 肴町(近世) 江戸期の町名飯山城下の一町北国脇往還市川道が本町北端で西へ曲がり,慶宗寺門前にて再び北へ向かう沿道に町並みが並ぶ南は本町,北は広小路・弓町・愛宕町に接する飯山三町の一つで,天正11年以降に町並みを形成慶長19年飯山城主堀直寄の書状には「さかな町」と書かれる(飯山町誌)町名の由来は魚市場が開かれたためとも推測されるが(同前),飯山城下に肴問屋が設立されるのは文政年間以後である元禄11年の町の長さ1町27間7寸,家数34(同前),家並役18軒(元禄11年飯山城下町屋敷検地帳/県史近世史料8-1)屋号に薬鑵屋・油屋・磨屋・糸屋・塩屋などがある(飯山町誌)正徳元年の家数21・本役家並18軒(正徳元年飯山町差出帳/県史近世史料8-1)天保6年の家数40,安政4年の家数33・人口142,文久3年の家数37(飯山町誌)元治2年の飯山城下の諸商売・諸職人の組合の行司に,呉服古着行司藤屋銀助,紙行司のたや重右衛門・清兵衛,古着行司八郎右衛門,塩行司のたや重右衛門,茶屋行司常吉,瀬戸物行司久衛,豆腐屋行司武助,質屋行司銀助がいる(同前)慶応4年富倉峠を越え越後新井より飯山城下に入った幕府歩兵頭古屋作左衛指揮下の一隊と,松代藩兵を中心とする軍勢との戦闘に際し,敗走する幕府浪人の放火により城下の大部分が焼失し,当町では家屋94棟が類焼した(同前) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肴町(近世) 江戸期の町名松代城下の一町で,町人町中町の東に南北に通る町筋町名の由来は,魚問屋や塩問屋が軒を並べていたことにちなむ戦国期の東条氏の城下町の一部として古くからあった町で,この由緒により松代町の祇園祭に出る大門踊を出す時などには常に優先権があった寛文11年松代町間改帳によると,家数46,町役として伝馬人足のほか,御城障子張出し・極月御餅つき人足・馬場普請人足・町寄合普請人足などがあり,毎月24~27日に勤め,また御役塩5石余を出した(県史近世史料7-2)安政7年の戸数51・人数194(松代町史)明治4年廃藩置県以後は松代町の一町となり,現在も長野市松代町松代のうちの字名の一つとして肴町がある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肴町(近世) 江戸期の町名刈谷城下の1町刈谷城の町口門を出て,本町と並行して東に続く町で,道幅1間4尺,多くの商店が立ち並び,本町とともににぎやかな商人町であった明治初年に南横町の一部を編入明治4年の廃藩置県により刈谷城下が刈谷村の一部になるに伴い,当町も刈谷村の一部となるが,その後も通称町名として昭和35年まで存続した町屋造りが昭和初期まで残っており,商店が多かったが,次第に住宅に変わって以前の面影はない現在の刈谷市銀座の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 肴町(近世) 江戸期~明治22年の町名古河城下18か町のうち脇町町人地「古河旧記」によれば,町筋は日光街道と垂直にのび,長さ21間1尺・幅3間4尺(藤懸家文書/古河市史)明治22年古河町古河の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」