佐橋荘(中世)
鎌倉期〜戦国期に見える荘園名越後国三島【みしま】郡(のち刈羽郡)のうち鯖石川と長鳥川の流域に広がる地域「吾妻鏡」文治2年3月12日条の記事が佐橋荘の初見これによると六条院領で,沙汰人は一条院女房右衛門佐局六条院は白河上皇の皇女媞子内親王の邸宅皇女の死後,鎌倉中期には万寿寺と称され,弘長元年禅寺となる佐橋荘は皇室を本所,万寿寺を領家とする荘園嘉元3年亀山上皇が後二条天皇に譲与室町院(暉子内親王)領であったが,同4年昭慶門院(熹子内親王)に継承された(御料地志稿)しかし室町初期には毛利氏により剽略される(京城万寿禅寺記/群書24)毛利氏と佐橋荘の関係は大江季光が佐橋荘南条地頭職を拝領したことに始まる季光は三浦氏の乱で没落し,その子経光が相模国毛利荘から佐橋荘南条に移住文永7年7月15日経光は安芸国吉田荘と佐橋荘南条の地頭職を四郎時親に譲与した(毛利文書)時親は六波羅評定衆となり中央政界に復帰南北朝期,元春以下毛利の主流は佐橋荘から安芸吉田荘へ移って西国毛利氏を,憲広とその子元豊・憲朝兄弟の一族が佐橋荘に残留して越後毛利氏を形成南北朝期から戦国期にかけて越後毛利氏は南条・石曽根・善根・北条・安田の諸氏を分出し,佐橋・鵜川両荘を本拠に上杉氏の重臣として発展した佐橋荘は長鳥川を境に南条と北条に分かれるが,当初南条に入部した毛利氏はその後,長鳥川を越えて北条に進出し,さらに鯖石川を越えて西隣の鵜川荘にも進出したすでに鎌倉期に佐橋・鵜川両荘は,事実上,毛利氏がその支配権を掌握しており,室町幕府の成立により公認された康応元年足利義満が毛利道依に与えた安堵状(反町毛利安田文書)には「佐橋荘地頭職事」と見えるここでは文永7年の「南条」という制約が消えており,毛利氏の支配権の伸張が窺える室町期以降,佐橋荘は荘園の性格を失い,南条・北条両毛利氏の領地となった天正13年閏8月7日の御島石部神社の棟札(白川風土記)に「東苅羽郡佐橋荘」と見えるのが荘名の終見近世になると佐橋は鯖石と書かれたなお,鯖石川は中世には佐橋川,単に俗称大川と呼ばれたものと思われる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7310148
最終更新日:2009-03-01