ケータイ辞書JLogosロゴ 塩沢村(近世)


新潟県>塩沢町

 江戸期〜明治22年の村名。魚沼郡のうち。元和2年長峰藩領,同4年高田藩領,同8年幕府領,寛永元年高田藩領,天和元年からは幕府領。村高は,元和9年検地帳では塩沢町1,508石余,「正保国絵図」1,400石余,「天和高帳」1,133石余・井口新田28石余,「天保郷帳」1,216石余。天和3年検地では反別98町余,屋敷数163。延享4年の家数185・人数812。寺社は元和9年検地帳に長恩寺・徳生寺・地蔵院・大蔵院・大条院・平等寺,文化2年塩沢組寺院書上帳に浄土宗長恩寺・臨済宗徳生寺・真宗平等寺・法華宗来清寺・真言宗地蔵院が見える。江戸初期高田藩によって陣屋が設置され,係役人が在勤した(塩沢旧事記)。寛永12年三国通りが越後諸大名・佐渡奉行の通路に指定されると宿場となり,本陣・脇本陣・問屋が置かれ,人夫25人・馬25匹を常備,宿場除高100石。寛永20年魚沼郡を7組に分けた時,当村に大肝煎役所を置き,管下58か村を統轄,塩沢組と称した。大肝煎役は井口家。元和年間から4・8の日に六斎市が開かれた。享保11年酒造家4軒・造酒量29石,慶応2年酒造家5軒・造酒量200石余(塩沢村酒造書上)。白布・越後縮は魚沼地方の特産として古くから生産され,安政4年塩沢村物産書上によれば,10万反が織られている。これらは京・大坂・江戸へ出された。また,薄荷草を原料として塗布薬薄荷円が生産された。文化・文政・天保年間には町人学者鈴木牧之が,「北越雪譜」「秋山記行」「夜職草」などを著した。幕末には井口機山・榴荘父子によって私塾三省堂開設。明治6年塩沢小学校開設。同11年塩沢病院設立。同12年からは南魚沼郡に所属。同16年塩沢中学校開校。同22年市制町村制施行による塩沢村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7310331
最終更新日:2009-03-01




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