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- 塩町(近世)とは
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塩町(近世) 江戸期の町名岩国城下錦見【にしみ】のうち町人地の錦見町の1町岩国七町の1つ錦見町の南部,町名の由来は,もと塩座があったことによるという当町と玖珂【くが】町・柳井町・米屋町を合わせて本町と呼ぶ享保6年まで当町末端に伝馬を司る役所である馬苦労屋があり,塩座も馬を利用するため近接して置かれるのを例としていた承応4年の岩国町屋敷御帳写(岩国徴古館蔵)によると屋敷数43で,本町筋北側が長さ55間・幅13間で家数21,南側長さ51間半・幅14間半で家数22当時は5間以上の間口を持つ者は嘉右衛門1人であった大工4・木挽2・石見屋2・濃物屋1・かぢ1・塩屋1などの屋号が見られる町年寄は,元禄10年頃は岩見屋源右衛門(岩国徴古館蔵岩国沿革志),宝暦11年は松重屋小左衛門で,当時は北側56間,南側59間,横町27間半,合計143間,家数46軒になっており,横町が次第に町地になっている(岩国徴古館蔵宝暦11年塩町屋敷帳)天保14年の玖珂町図面(岩国徴古館蔵)によれば,北側66間余,南側64間,横町北角より南角まで96間余,新町北側下の石橋より東善福寺前境まで57間半とあり,武家地の大明小路を越えて東に延び,これを新町といった間口5間以上もつ者に,生田屋・宇治屋・金屋・小林・竹野・野元・山口屋・大工久右衛門などがある塩町末端に元禄年間頃まで木戸門があり,町方の区域と侍屋敷との区画を分けていた |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
塩町(近世) 江戸期~明治5年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
塩町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
塩町(近世) 江戸期~明治7年の町名福井城下のうち京町組の1町東は京町,西は山町,南は木町,北は夷町に接する慶長年間の御城下四ツ割図(松平文庫)にすでに町名が見え,家数35を数える塩問屋や塩小売商が居住した町で,明治5年頃の調査でも塩屋5軒があった(稿本福井市史)正徳3年頃の御城下惣町間数帳には「塩町 七拾三間,往還ヨリ山町迄,但道幅三間半」と見えるこの往還とは北陸街道を指す安政元年6月13日朝,当町の鍛冶屋次助宅から出火,火はたちまち京町組・本町組・上呉服町組・下呉服町組と城下町西部に燃え広がり,さらに北部の松本町組から吉田郡幾久村にまで飛火する大火となった同日夕刻鎮火するまでに,焼亡家屋は2,264軒,ほかに土蔵190・寺49,足軽も含めた藩士の屋敷431軒を焼失した城下の約3分の2を焼いたこの大火は,「塩町焼」として語り継がれた明治7年町名改正時の戸数25同年照手中町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
塩町(近世) 江戸期の中津城下の町名初期城下14町のうち下の8町の1つ享保4年の軒数48・竈数50で,支配の蠣瀬新町を加えると軒数57・竈数62古魚町組の町年寄の支配下にあった奥平氏時代59町の1つ現在も中津市中津地区の通称地名として存続... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」