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- 下宿村(近世)とは
「下宿村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 下宿村(近世) 江戸期~明治9年の村名都賀郡のうち思川(小倉川)中流右岸の沖積地に位置する西方郷13か村の1つで,西方城付の古い村(峯・富張・下宿・富加見内・金井・柴の6か村)のうち(西方記録)西方郷西部の古い街道沿いに北から新宿・中宿・古宿・下宿が並び,村名も西方城付の古宿に対すると思われるはじめ下総結城領,慶長年間西方藩領(恩栄録),そののち旗本駒木根右近知行,元和2年武蔵鳩谷藩領,同3年同藩主阿部正次の転封に伴い上総大多喜藩領,同5年同じく転封により相模小田原藩領,同9年三たび転封により武蔵岩槻藩領となり,天和元年下総古河藩領,元禄10年から旗本本多・間宮氏の相給となったが,同14年以降からは旗本本多・堀氏の相給で,「旧高旧領」によればそれぞれ180石余を知行した村高は,「慶安郷帳」209石余(田98石余・畑116石余),「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに361石余寛文2年の検地水帳によると田14町余,畑・屋敷合わせて32町余(中田家文書)元禄9年古河藩領下における年貢は米納197俵余・永納28貫文余,元禄年間以降では,堀氏知行分は米納106俵余・永納14貫文余,本多氏知行分は米納109俵余・永納14貫文余(同前)享保4年高359石で日光街道壬生【みぶ】通壬生宿定助郷に指定された「改革組合村」では合戦場宿組合寄場に属し,天保年間の家数27安政7年の家数・人別は堀氏知行分13・69(男36・女33),本多氏知行分13・79(男44・女35)明治元年の村明細帳によると,反別は田14町8反,畑32町8反(屋敷2町8反),家数26・人別152(男82・女70)畑は両毛作で農間の稼ぎはない秣刈場はなく菅原新田内で時々草を刈った栃木町から古峰原への往来道筋に当たるが市立てはなし産物には麁麻苧がある米津出しは2里離れた栃木川岸を利用した用水は高360石で西方郷12か村用水組合に加わり,小倉川からの引水の用益権を持っていた当村には野場がなく真名子村・深程村から山札を受けて秣や燃料を採っていたので,正徳年間には「萌木札」の新設をめぐり両村との間で出入があった(中田家文書・越路家文書)江戸中期に当村ほか7か村の各一部が開発され,菅原新田となった慶応4年4月中旬,安塚村あたりに起こった打毀は西方郷にも波及し,小百姓が西方山から峯村実相寺に屯集して気勢を上げ,金崎宿問屋森右衛門をはじめ郷内の豪家を襲って,借金の一部棄捐,物価引下げに成功した当時の村内窮民家数は2給で12軒(中田家文書・島田家文書)鎮守は大沢田村に鎮座する近津明神9月29日の例大祭には当村を含む氏子14か村の座持67人が拝殿へ昇って神酒を受けたのち,2か村ずつが当番となって附祭りを行った(阿久津家文書)寛永12年に当村中田氏出身の江戸愛宕山円福寺住持俊賀法印は利米を近津神社例祭運営に充てるため米30余俵を寄進している(同前)村内鎮守には菅原神社がある寺院は峯村東安寺末新義真言宗照明院(無住のため明治5年廃寺)がある地内の中田家屋敷内からは暦応2年紀銘の板碑が出土している明治4年栃木県に所属同7年の学齢児童数33,うち就学者数8(男5・女3),不就学者数25(男7・女18)翌8年の反別47町8反余,戸数30・人員184(中田家文書)明治9年本郷村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下宿村(近世) 江戸期~明治12年の村名伊都【いと】郡のうち紀ノ川中流右岸に位置する地名は隅田【すだ】荘上宿村に対して名づけられたという(続風土記)和歌山藩領知行所丁ノ町組に所属村高は,慶長検地高目録では「宿村」と見え,181石余,ほかに小物成2斗余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに186石余宝永5年の丁ノ町組指出帳(中谷家文書)によれば,村高182石余,反別は田7町8反余・畑9町7反余,家数70軒・人数322,牛5,池6・井手1,川船3,山4であったまた「続風土記」によれば,田畑高186石余,家数63軒・人数301,村内に古城跡があった当村と滝村,那賀郡静川荘村々との間に山論があった文政6年には干害がひどく,夏には伊都郡でも全域で騒動が起こり,当村にも波及したという(口五郡百姓騒動実録/県史近世3)神社は八幡宮・若宮・小社寺院は浄土真宗本願寺派極楽寺ほかに薬師堂1宇明治4年和歌山県に所属同6年には戸数82,男202・女185同9年の旧反別18町余,新反別22町4反余,増加反別4町4反余(松山家文書)同12年高田村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下宿村(近世) 江戸期の村名伊都【いと】郡のうち丹生【にう】川上流域に位置する地名は,往古の富貴【ふき】村の八幡宮前での弓始めの際,当村の者が矢取をすることを例としたことによるという高野山学侶領村高は,「天保郷帳」では14石余なお「古者摩尼之内」と注記されており,摩尼村(西峰村)から分村して成立したものと思われる「続風土記」では,東宿村・西宿村と分けて記されており,家数・人数は,東宿村6軒・19人,西宿村5軒・17人,神社は東宿村に八幡宮・狩場明神社・地蔵社の小祠3社,西宿に牛頭天王社・八王子社・狩場明神社の小祠3社がある江戸末期に東宿地域が北宿村に,西宿地域が南宿村と,それぞれ改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 下宿村(近世) 江戸期~明治9年の村名中通り中部,釈迦堂【しやかどう】川下流右岸に位置する岩瀬郡のうち古くは牛袋【うしぶくろ】荘川中郷に属したという古代・中世には宿駅があり,中宿とともに栄えた奥州街道の改修に伴い,当村の町家を旧須賀川城内搦手・三の丸に移し北町とした(野川本藤葉栄衰記)はじめ会津領,寛永20年白河藩領,寛保元年からは越後高田藩領村高は,文禄3年の蒲生高目録で339石余,古領高長では558石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに645石余延享3年の家数53軒・人数327(矢吹家文書)助郷は奥州街道須賀川宿に出役鎮守は御所大明神,寺院は天台宗宝来寺明治9年中宿村と合併して森宿村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」