下達村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。頸城【くびき】郡のうち。天和3年の検地に際して,達村が上達村と下達村に分村して成立。はじめ高田藩領,天和元年からは幕府領。村高は,「天和高帳」45石余,「天保郷帳」では上達村枝郷とあり93石余。天和3年の検地では,反別田5町余・畑屋敷5町余・山林3町余。安永9年の新田検地高46石余。なお,この新田検地は荒地同様の田地までも竿入したので,年貢上納が困難だとして寛政元年に再検地を願い出ている(村松千秋家文書)。天保2年から冷害のため凶作が続き,同6年大平村ほか4か村嘆願書には当村も名を連ねているが,この時の当村の家数36・人数197(立教大学蔵)。鎮守は神明神社・諏訪神社。明治5年の戸数33。同12年からは東頸城郡に所属。同22年保倉村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7310719
最終更新日:2009-03-01