ケータイ辞書JLogosロゴ 下和田村(近世)


新潟県>新潟市

江戸期〜明治8年の村名蒲原郡のうち弘治〜永禄年間の開発と伝える(皇国地誌)慶長17年分御蔵納同払方帳(新発田市史資料編3)には和田村とある寛永16年横越島絵図には和田村と和田村新田が見え,和田村の地が当村に,和田村新田の地が上和田村に比定される信濃川下流,小阿賀野川との合流点付近の右岸はじめ新発田【しばた】藩領,寛永16年沢海【そうみ】藩領,貞享4年幕府領,文政12年からは新発田藩領村高は,寛文4年郷村高辻之帳(県史資料編8)和田村として113石余,「元禄郷帳」304石余,「天保郷帳」317石余延享3年村明細帳(新潟市合併町村の歴史史料編3)によれば,反別は田23町余・畑5町余,家数33・人数188,御蔵1,小物成は夫永・川役・真綿代,作付は晩稲のみ,畑方は茄子・蕪・大根・大豆・稗など宝暦7年の水害では,当村の堤550間余が2度にわたって破堤,被害は新発田領内で5万3,000石余にのぼったといういくり網による鮭漁業が盛んであった幕末に金工名人斎藤芳彦が活躍庄屋は,初期には新蔵・七郎左衛門・七之丞が見え,天明年間頃までは村山・菅井両家が交代で勤め,天明年間からは吉(吉原)家鎮守は諏訪社寺院は真宗大谷派栄覚寺明治5年吉家を借用して私塾雛燕館設置,同6年和田校となる同校は授業料は収入せずとあり校舎の建築資金は有志の寄付によった同8年和田村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7310874
最終更新日:2009-03-01




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