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- 新材木町(近世~近代)とは
「新材木町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 新材木町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は相川の1町相川之図(佐渡志)によれば,町並みは南北に続き,南は羽田浜,北は材木町に接する相川町々書上によれば,町並み45間余,屋敷1反...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7311075]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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新材木町(近世~近代) 江戸期~昭和7年の町名日本橋川の入堀の東堀留【ひがしほりどめ】川東岸の区域古くは芝原宿【しばはらじゆく】といわれる(画報・府志料)町名は元和年間以後,材木商が多く居住したことにより,江戸橋南の本材木【ほんざいもく】町に対して新の字を付したのにちなむ町内には,竹・材木を商う者が多かった(続砂子)また「江戸名所」には,藤原秀郷の起立と伝える椙森【すぎのもり】稲荷があった(安政再板の切絵図では堀留町2丁目)とある東堀留川に架かる和国【わこく】橋から椙森稲荷に至る道を水森新道(切絵図)・稲荷新道(備考)といった新道の角には材木御用聞白子屋があった東堀留川の河岸地は,東万【ひがしよろず】河岸あるいは多葉粉【たばこ】河岸(備考)と呼ばれ,紀伊徳川頼宣の生母お万の方の化粧料として与えられたともいわれ,お万河岸の別称もあった明治元年東京府に所属同5年の戸数135・人口558(府志料)同11年日本橋区に所属昭和7年堀留町1丁目に編入現行の日本橋堀留町のうち |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新材木町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は高松城下の1町城下町の東端杣場川口に沿った位置にあって,杣場川に架かる新橋の西詰までが城下町であった寛永17年の城下図に東かこ町の北に材木屋と記したところがあり,また享保年間の図には東浜の南側と東側に材木町が見え,寛政元年頃には北浜に材木町ができたので(北浜材木町),前後して杣場川側の東西に新しく材木町をつくったと思われる新しくできた材木町の意から新材木町とよばれた明治23年からは高松市の町名となる同30年頃には,古道具商1・宿屋1・木材商1・船問屋1とある(繁昌懐中便覧)杣場川口は新材木町港と呼ばれ,造船所が並び,季節には広島からのカキ船が浮かんでいた大正元年の戸数90,昭和元年の世帯数46世帯数・人口は,昭和15年末50・243,同19年末49・263,同20年7月の高松大空襲戦災に遭い,同年末5・29,同35年73・252同39年井口町・東浜町1~3丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」