ケータイ辞書JLogosロゴ 田沢村(近世)


新潟県>中里村

 江戸期〜明治22年の村名。魚沼郡のうち。江戸前期は信濃川右岸の段丘上に点在する22か村の総称。川北組とも呼ばれた。本村である田沢村のほか,土倉新田・荒屋新田・角間新田・田中村・東田尻新田・如来寺村・程島新田・白羽毛村・葎沢新田・市野越村・倉下畑新田・下朴木沢村・桂村・朴木沢新田・高道山村・上干溝村・通山村・小原村・上山村・芋沢村・藤原新田からなる。はじめ高田藩領,天和元年からは幕府領。村高は,「正保国絵図」50石余,「天和高帳」53石余,「元禄郷帳」59石余,「天保郷帳」では枝村分を含み1,265石余。天和2年検地では,本村の反別田畑屋敷14町余,のち宝暦6年新田検地で新たに33町余が打ち出された。元禄7年改村鑑によれば,本村の家数6・人数96,馬16。神社は十二社。寺院は曹洞宗泉竜寺。田沢村22か村を統括する庄屋は本村田沢村に置かれ,一時期を除いて村山家が世襲。組頭・百姓代も本村の長百姓が勤めた。本村田沢村には御蔵が設けられていた。江戸中期以降は各村が田沢村に吸収され,郷帳類では田沢村1村として扱われるようになる。地内信濃川沿いに善光寺街道東通りが通り,小原村と宮中村との間に船渡しがあった。宝暦年間には清津川にも船渡しが始まり,善光寺街道も東通りが主流となった。わずかに畑地となっていた桔梗ケ原は天明5年から新田開発が進み,東田尻新田で清津川の水を堰上げしてから,寛政元年検地を受け田沢新田が成立する。文政11年以降庄屋は水沢村(現十日町市)庄屋孫左衛門が兼務,天保9年からは村内で輪番制となるが,庄屋役をめぐる争論が発生し,嘉永5年からは村内を東組・西組として庄屋を置いた。天保8年飢饉が深刻化すると当村仙太郎が無名の回状を回し,数百人の零細農民が騒動を起こし,太田島村(現十日町市)の米穀商磯兵衛宅を打ちこわした。これが引き金となって津南一揆が発生した。天保13年の総村の家数430・人数1,869。明治8年田沢小学校・高道山小学校・同校角間分校が開校。同15年角間校が小角校と改称,同時に同校土倉派出場が開設。明治12年からは中魚沼郡に所属。同18年田沢新田を合併。同22年市制町村制施行による田沢村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7311930
最終更新日:2009-03-01




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