ケータイ辞書JLogosロゴ 燕町(近世)


新潟県>燕市

 江戸期〜明治22年の町名。蒲原郡のうち。江戸期は3・8の日に六斎市が開かれ在郷町として発展した。つばめ村・鷰町とも書き,枝郷に井土巻村があったが,のち分村した。元和2年三条藩領,同9年幕府領,慶安2年からは村上藩領。高は,元和6年三条御引渡郷村帳につばめ村として192石余,「正保国絵図」は燕村として456石余,「元禄郷帳」152石余,享保13年村上藩領村々高辻帳(燕市史資料編1)665石余,「天保郷帳」724石余。延宝9年町絵図によれば,町は信濃川(中ノ口川)に沿って東西に長く続き,町並みを通り,通りに垂直に交わる細い道を小路と称し136筆に町割されている。町の西には御太屋(他屋)・牢屋敷,東には御蔵が見え,中央部に燕組大庄屋樋口嘉兵衛家がある。西方院・専養寺・願性寺などの寺や宮(戸隠神社)の敷地も大きな割合を占めている。六斎市は「越後名寄」などによれば宝暦6年以前といい(一説に延宝9年),また,7月26日〜8月3日の間に馬市が開かれていた。元禄14年鷰組石数人数家数帳(同前)によれば,高567石余(うち田36町余・畑28町余),家数165(うち百姓家38・町人家102)・人数923。宝暦6年村々高反別之覚(同前)によれば,高687石余(うち田高476石余・田39町余,畑高196石余・畑44町余),家数295(うち本百姓145・借地146・寺4)・人数1,717,馬4。天保10年御巡村御道筋五ケ組御案内帳によれば,高724石余,家数317(本百姓128・水呑189)・人数2,406。慶応3年燕最寄諸職人名付帳(県史資料編12)によれば,本酒屋4・町請酒屋7・在請酒屋10・室役4・質屋6・鍛冶13・紺屋3・桶屋6・大工3・木挽1・指物師1・檜物師1・塗物師1。宝永7年〜正徳元年にかけて村上藩飛地(通称四万石領)で幕府領編入を願って越訴事件が発生,当町の市兵衛は越訴の頭取とされ,遠島の刑に処せられている。古くから金物の産地として知られ,和釘は寛永年間江戸から職人を招き,農間余業としたことに始まると伝える。維新後洋釘が輸入されるまで若狭国小浜とともに和釘生産の中心地であった。鎚起銅器の技術は明和年間仙台の藤七によって伝えられたといい,特に文化年間玉川堂と号した覚兵衛によって燕銅器の礎が確立された。ほかに松華堂と称する系統もあった。煙管は明和年間星野家の玄司もしくは佐左衛門が江戸で住吉張の技術を修得して帰郷したという。安永5年弟子入作法書(同前)には太田村の藤七が奥州若松錺屋市右衛門の弟子になったとあり,この両者によって広められたという。このほか鑢・彫金技術などが江戸中期に江戸や会津方面から伝わったという。これら金属生産物は三条商人によって全国に販売されたが,のち明治13年三条大火後は燕町の商人が産地問屋として活動した。神社は戸隠権現社。寺院は,浄土宗西方院・真宗大谷派専養寺・浄土真宗本願寺派願性寺・曹洞宗万能寺。明治12年西蒲原郡に所属。同19年燕町戸籍による職業調査表によれば,世帯数は996,鍛冶職359・鍛工44・銅鍛冶4・彫鍛冶2・金物8・鉄物商2・金物商3など金属器関係が半分近くを占めている。同21年の戸数778・人口4,071。同22年市制町村制施行による燕町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7312381
最終更新日:2009-03-01




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