ケータイ辞書JLogosロゴ 中野小屋村(近世)


新潟県>新潟市

 江戸期〜明治22年の村名。蒲原郡のうち。枝郷に前野外新田があった。長岡藩領。村高は,元和4年御知行目録(県史資料編7),「元禄郷帳」ともに146石余,「天保郷帳」518石余。増加は文政3年新川開削により干上がった周辺の沼沢地を開拓したためであろう。長岡藩領曽根組の中心村の1つとして郷蔵が置かれ,大庄屋・割元(享保5年以降)が任命された。貞享年間以降の大庄屋・割元は椎谷,古俣,伊藤,安倍,亀山各家と移り変わった。文化〜文政年間に割元を努めた伊藤五郎左衛門は,三潟悪水抜き工事の筆頭願人として活躍した。三潟悪水抜きは大潟・田潟・鎧潟の湛水被害をなくすため,大潟から五十嵐浜までの約2,400間を掘り割って新川を通し,悪水を日本海へ流そうとするもので,文化15年に着工,文政3年に完成通水した。総工費6万両余,従事した人足は延べ199万人余にも達した。五郎左衛門は工事費調達のため,文政2年には前野外新田の庄屋役禄を180両で高山村又四郎に,翌3年には割元役・役田御免田などを質入れの形で流作場新田庄屋の安倍観左衛門に売却するなど,私財を投げうって尽力した。新川の完成により大潟・田潟の水位は下がり,周縁部の水腐地は干上がって次々と水田が開拓されていったが,文政10年三潟新田地はすべて幕府へ上知となり,願人の手元には膨大な借金だけが残された。長岡藩は願人をあわれみ,資力を超える借金は藩が肩代わりし,功績に対して1人に年御蔵米70俵を子々孫々まで下附することを達している(新潟市合併町村の歴史1)。長岡城下と新潟湊を結ぶ長岡街道が村内を通る。慶応2年の家数70,馬8(新潟町会所文書)。神社は,諏訪社・諏訪社末社・天満宮・伊夜日子大神社。寺院は浄土真宗仏光寺派善宝寺。明治12年西蒲原郡に所属。「皇国地誌」によれば,戸数66・人口419,馬19,農船46,荷車1・人力車7。同17年連合戸長役場設置。同22年中野小屋村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7313195
最終更新日:2009-03-01




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