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橋場村(近世) 江戸期~明治初年の村名豊島郡峡田【はけた】領のうち村名の由来は当地に隅田【すみだ】川横断の橋が架けられていたことにちなむというが,その橋については「源平盛衰記」「義経記」に見える源頼朝が架けた浮橋とも,「夫木和歌集」の藤原光俊の歌に詠まれている橋とも,「一遍聖絵」に描かれている板橋とも,「梅花無尽蔵」に見える太田道灌が架けた橋ともいう(砂子・葛西志・新編武蔵・本町通鑑)天文23年・永禄3年の総泉寺文書には「石浜総泉寺」と見えるが,天正19年の徳川家康朱印状に「武蔵国豊嶋郡橋場之内弐拾石」,慶安元年の徳川家光朱印状写に「橋場村総泉寺領同村内弐拾石事」とあり(総泉寺文書/武文),戦国期には石浜と称されていた「田園簿」の村高は幕府領668石余・総泉寺領20石「天保郷帳」には「橋場町610石余」とある正徳3年村内の3町6反余が町奉行支配の浅草橋場町となり,以後残余を橋場町地方【じかた】と称した |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
橋場村(近世) 江戸期~明治初年の村名豊島郡峡田【はけた】領のうち村名の由来は当地に隅田【すみだ】川横断の橋が架けられていたことにちなむというが,その橋については「源平盛衰記」「義経記」に見える源頼朝が架けた浮橋とも,「夫木和歌集」の藤原光俊の歌に詠まれている橋とも,「一遍聖絵」に描かれている板橋とも,「梅花無尽蔵」に見える太田道灌が架けた橋ともいう(砂子・葛西志・新編武蔵・本町通鑑)天文23年・永禄3年の総泉寺文書には「石浜総泉寺」と見えるが,天正19年の徳川家康朱印状に「武蔵国豊嶋郡橋場之内弐拾石」,慶安元年の徳川家光朱印状写に「橋場村総泉寺領同村内弐拾石事」とあり(総泉寺文書/武文),戦国期には石浜と称されていた「田園簿」の村高は幕府領668石余・総泉寺領20石「天保郷帳」には「橋場町610石余」とある正徳3年村内の3町6反余が町奉行支配の浅草橋場町となり,以後残余を橋場町地方【じかた】と称した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」