ケータイ辞書JLogosロゴ 日出潟十三ケ村受(近世)


新潟県>燕市

江戸期〜明治10年の村名蒲原郡のうち拾三ケ村受・日出潟とも称した日出潟は8町余の広さを有し潟周辺の村々によって用悪水溜井として利用されていたが,安永2年又新村市左衛門が4町余の新田開発を石瀬代官所に願い出たしかし,用悪水溜が狭くなるとの村々の反対で2町余が許可され,同5年市左衛門受として検地を受け高12石余の新田となったその後各村々は残りの6町余に対し冥加米3石余を納入し,用悪水溜として利用していたが,残りも開発が行われ享和2年検地をうけ村受新田として成立したはじめ高崎藩領,文政2年は幕府領,同3年からは高崎藩領村高は,文政2年幕領脇野町郡中高辻(燕市史資料編1)拾三ケ村請として26石余,「天保郷帳」日出潟として26石余享和2年拾三ケ村請新田検地帳(同前)によれば,村請見付田として三王淵村3石1斗余(3筆4反余)・又新村1石4斗余(2筆2反余)・二階堂村(2筆1反余)・勘新村と小古津新村共有1石5斗余(2反余)・大船渡村9斗余(1反余)・小中川村2石3斗余(3反余)・次新村2石1斗余(3反)・四ツ屋村1石2斗余(1反8畝余)・中川村1石6斗余(2反余)・小牧村2石8斗余(4反余)・真木村(現中之口村)3石余(4反余)・道上村と分郷道上村5石2斗余(3筆7反余)をそれぞれ高請し,26石7斗余(3町8反余)の新田となった検地は高崎藩によって行われたという(皇国地誌)大正3年地形図(国土地理院発行)では潟はなく水田となっている日出潟周辺は昭和48年に住宅団地が造成され,花園町となった明治10年真木村請分が真木村,道上村請分が道上村,小牧村請分が小牧村,中川村請分が中川村,四ツ屋村請分が四ツ屋村,次新村請分が次新村,小中川村請分が小中川村,大船渡村請分が大船渡村,小古津新村請分が小古津新村,勘新村請分が勘新村,二階堂村請分が二階堂村,又新村請分が又新村,三王淵村請分が三王淵村となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314228
最終更新日:2009-03-01




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