ケータイ辞書JLogosロゴ 東名村(近世)


新潟県>守門村

 江戸期〜明治22年の村名。魚沼郡のうち。慶長3年村民の一部は上杉景勝に従って会津へ移り,残留した一族は同5年の魚沼一乱(上杉遺民一揆)の際に下倉【したくら】城を攻め,一時会津へ退転,同6年秋帰参したという。元和2年長岡藩領,同4年高田藩領,延宝9年幕府領,寛保3年からは糸魚川【いといがわ】藩領。村高は,「正保国絵図」45石余,延宝2年高軒新田見出指出帳(穴沢家文書)50石余,天和3年検地帳61石余(田51石余・畑9石余),「天保郷帳」73石余。延宝2年高軒新田見出指出帳での家数25。享保14年には本田の田2町余・畑1町余,新田の田1町余・畑4反余,家数32・人数198,馬7。文化11年の家数43・人数263。鎮守は守門大明神,ほかに仙女権現堂,地蔵堂,薬師堂,金毘羅神社,清明神社などがある。農業のほか,男は材木・木呂【ころ】を切ったり鼻不嚙【はなかまず】舟・臼などを造って四日町河岸で商い,女は白布・小白布・細美・縮・紬を織り養蚕を行う。また,山漆木・里漆木があり,山蝋実・里蝋穂は領主の買上げとなる。破間川には渡し船がある。川鱒漁を行う。元文元年破間川の大洪水で下段全域が浸水し,流失3軒・倒壊6軒などの被害をうけ,その後川除普請がしばしば行われる。寛延3年魚沼郡糸魚川領23か村が1か年に2年分の年貢徴収に反対して江戸に直訴した一揆に参加(穴沢家文書)。宝暦13年上条25か村の山論に連判する。明和元年北方の山手に大地滑りがおこる。元治元年新規に生糸・絹織物に課税する七品運上品替に反対する運動に参加。慶応2年7月18日夜三国街道堀之内宿の郷元(七品運上請負人)宮庄九郎家・本陣宮源左衛門家打毀に当村民も参加。同4年閏4月〜5月戊辰戦争の戦乱を避けて山中の小屋で生活する。同5年の租税は本途米30石余,見取米4斗余,小役40銭余,山蝋実税7銭余。同12年北魚沼郡に属す。同21年の戸数42・人口180。同22年上条村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314301
最終更新日:2009-03-01




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