ケータイ辞書JLogosロゴ 平沢村(近世)


新潟県>柿崎町

 江戸期〜明治22年の村名。頸城【くびき】郡のうち。はじめ高田藩領,天保元年幕府領,文化6年からは高田藩領。村高は,「慶長国絵図」4石余,「天和高帳」90石余,「天保郷帳」140石余。天和検地後とみられる国田組村々明細書上帳では,反別は田6町余・畑1町余・山林8町余,漆木67,家数18・人数116,馬12,堰4(中村家文書)。酒造業への出稼人が多かった。ほか農間に製炭・わら加工の稼ぎがあった。元禄3年平沢・米山寺・水野3か村と牧村の間に山境の帰属をめぐって争論が発生(中頸城郡誌)。新田開発も下流域の川田・阿弥陀瀬・荻谷3か村の用水に支障をきたすため思うにまかせず,たびたび水論となった。延享元年・文政8年にも訴訟があり,内済の結果,平沢・岩野両村の田地字鳥羽,平沢村田地字中江沢に限り炭屋用水からの水分が認められた(樫出家文書)。寺の7つの鐘の音を合図に水番が堰の水分けをするのが常であった。鎮守は白山社。寺院は浄土真宗本願寺派光宗寺(宗性寺ともいう)・真言宗御戸寺(現在廃寺)。明治12年からは中頸城郡に所属。同21年の戸数20・人口147。同22年黒川村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314431
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ