ケータイ辞書JLogosロゴ 琵琶島(中世)


新潟県>柏崎市

 戦国期に見える地名。越後国刈羽郡のうち。琵琶島城(城主宇佐美氏)・鵜川神社などがある。初見は永正5年8月17日の長尾為景寄進状と同じく正藤(姓欠く)寄進状(鵜川神社文書)。前者には「苅羽郡琵琶島之八幡宮,拾八貫之地」,後者には「苅羽郡琵琶島之八社宮拾八貫之地」と見える。琵琶島城主は竜命丸(上杉房方)が鎌倉から越後へ入国したとき,随行してきた神得祐益(宇佐美満秀の弟)に始まり,代々宇佐美氏を名乗り,定秀・孝忠・定満と続く。永正10年定実と為景が対立すると琵琶島城主宇佐美房忠・上条城主上条定憲(のち定兼)は為景と戦い,翌11年6月26日小野城(柿崎町)で房忠が敗死,息子弥七郎,のちの宇佐美定満は羽前の伊達氏の下に敗走し,一時,琵琶島城から宇佐美氏は追われた。享禄3年再度定実と為景の不和が生じ,反為景派の盟主上条城主上条定憲と為景派の属城である琵琶島城・北条城(城将安田景元・北条輔広)の間で合戦を展開。宇佐美定満は越後に復帰し,上条氏と結んで為景派と戦い,琵琶島奪回に努める。宇佐美定満が春日山城主長尾景虎に従属し,琵琶島城主に復帰したのは天文20年以降か。琵琶島城は永禄7年宇佐美定満が長尾政景と共に溺死し,領地没収,子息勝行は浪人となる。柏崎弥七郎広員が跡を継いだが,同12年病死したという(刈羽郡旧蹟志)。御館の乱の際は琵琶島善次郎・前島修理亮らの城将が居城し,北条城の毛利景広と協力して景虎を助ける。そのため城を追われ,天正12年2月14日景勝は桐沢具繁を琵琶島・北条両城の城主に任じる(桜井市作所蔵文書)。この間,永禄3年10月の貫屋家兼道者株売券案に「ひわ島」と見える(京大来田文書)。下って文禄3年定納員数目録には「琵琶島保」と見える(信濃史料叢書12)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314492
最終更新日:2009-03-01




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