ケータイ辞書JLogosロゴ 二俣村(近世)


新潟県>栄町

江戸期〜明治19年の村名蒲原郡のうち二又村とも書く信濃川水系貝喰【かいばみ】川流域地名の由来は,かつて沼河であった時代に二岐をなした微高地が入江を造っていたことにちなむか天正5年の三条衆給分帳(市川浩一郎所蔵文書)には二俣大炊助の名が見えるはじめ新発田【しばた】藩領,寛政元年からは幕府領村高は,延宝年間72石余,「元禄郷帳」131石余,「天保郷帳」190石余戸口は,延宝年間26戸・190人,寛保年間29戸・216人文久3年中之島組村との丸山興野事件が起こり,江戸評定所まで提訴する事件に発展したが,名主片桐省助はその渦中の人となる省助は,維新後に東京府に勤務したが,のち冤罪で三宅島へ流され,同島の教育復興に尽力し,晴れて帰郷して明治6年病没鎮守は神明社明治6年元名主片桐治吉宅に二俣学校創立明治18年小古瀬学校と改称同19年小古瀬村・善久寺村・渡前村の各一部となる
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314705
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ