ケータイ辞書JLogosロゴ 府内(中世)


新潟県>上越市

鎌倉期から見える地名越後国頸城【くびき】郡のうち府中・越府ともいう和歌山県高野山にある石塔の元亨3年8月日付銘文に「越後国府中住人比丘尼禅因」とあるのが,早い所見(高野山所在資料)現在の上越市の直江津・五智両地区に当たる府内・府中は元来,一国の国府(国衙)の所在地を意味する古代の越後国府が頸城郡内に位置したことは確かであるが,その比定地は現在の上越市五智1〜3丁目の安国寺・御館付近とする説のほか,新井市国賀や板倉町国川・妙高村今府などに求める説もあって,必ずしも明確ではない中世の府内の地は,古代には頸城郡都有郷に属し,北陸道の水門駅も設置された水陸交通の要地であったから,鎌倉期には守護所も置かれて府内(府中)といえば当地を指すようになっていたとも考えられるが,後越の政治的中心地としての地位を確立するのは,南北朝初期の暦応4年に関東管領上杉憲顕が守護となって入国して以降のことである室町期には府中八幡宮の文安3年6月日付鰐口銘に「岡前寺 越後州頸城郡府中」と見える(府中八幡宮資料)上杉房定が守護であった宝徳〜明応年間には府中の繁栄を慕って訪れる文人も少なくなかった寛正6年には京都常光院の僧尭恵法印が善光寺への途上,「府中の海岸」に宿泊して「契りをけおなし越路の末の露月もやとれる草の枕に」と詠じた(善光寺記行/群書18)ついで,文明17年の再訪時には一宮居多神社に詣で,房定の世話で最勝院を旅宿としている(北国紀行/同前)翌年には聖護院道興准后が府中を訪れ,房定の出迎えをうけて長松寺塔頭貞操軒に逗留,「日かすへてなれぬる旅の中也ともなこりは尽し都ならねど」と名残を惜しんだ(廻国雑記/同前)このほか,安国寺・至徳寺・円通寺などの寺院があり,越後文化の一大中心地を形成したまた,この頃,「越後国府中」では摂津天王寺本座やその他外内の新儀商人らが越後特産の青苧の売買に従事していたことも知られ,直江津の港湾機能を背景として流通・運輸の結節点ともなっていた(実隆公記裏書文明18年5月26日付室町幕府奉行人連署奉書/大日料8‐18)永正年間に守護代長尾為景が春日山城を要害として強化すると,府中は山麓の春日町とともに城下町として位置づけられるようになったが,天文21年,長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉憲政を当地に迎えて御館(現上越市五智1丁目)を築造し,これを政庁に利用したため,戦国末まで府中は戦国大名上杉氏の領国支配の中枢であった御館の周辺には「大楽館」「金津立」「弥五郎屋敷」などの小字が遺り,領国内諸将の屋敷があったこともうかがわれる謙信は「府内大橋」を修築,また家屋を板葺屋にさせるなどして都市機能の充実を図り(木島平右衛門所蔵文書卯月27日付長尾景虎証状写・大島一郎所蔵文書4月5日付上杉政虎条書),永禄3年には「府内町人」に対して5か年間地子および船頭役・馬方役・鉄役・酒役・麹子役など諸役を免除して商工業の振興を企てた(上杉家古文書永禄3年5月13日付長尾氏老臣連署条目写)謙信は関東在陣中,府内の警備を厳重にし心の用心に努めるようしばしば春日山留守将に命じている(歴代古案永禄4年2月11日付長尾景虎書状・聴濤閣集古文書永禄5年2月27日付上杉輝虎書状・歴代古案同年3月15日付上杉輝虎書状・楡井文書永禄7年卯月8日付上杉輝虎書状/越佐史料)天正6年の御館の乱においては上杉景勝の兵が御館攻略のため府中に乱入,6,000間の家に火を放ったと伝えられる(景勝一代略記/越佐史料)なお,天正20年と推定される10月27日付本願寺顕如印判状写には「越後 府内」とあり,当地の講衆中から本願寺に懇志の銭が上納されているまた,戦国末期の正月28日付本願寺印判状写には「フナイ村」の表記もある(本覚坊文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314729
最終更新日:2009-03-01




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