ケータイ辞書JLogosロゴ 米山寺村(近世)


新潟県>柿崎町

 江戸期〜明治22年の村名。頸城【くびき】郡のうち。はじめ高田藩領,天和元年幕府領,文化6年からは高田藩領。村高は,「天保国絵図」260石余,「天和高帳」285石余・新田49石余,「天保郷帳」345石余。天和検地後とみられる国田組村々明細書上帳によれば,反別は田18町余・畑3町余・山28町余,新田田3町余・畑3反余,漆木261,家数43・人数253,馬27。また,用水は牛蒡谷・岩野川・岩手川より取水,溜2か所(中村家文書)。地内山林は薪炭用材を産したことから元禄3年山境の帰属をめぐって水野・米山寺・平沢3か村と牧村との間に争論が発生。幕府裁許では,双方に私曲があるとされ,米山寺・牧村両庄屋に牢舎が命じられた(中頸城郡誌)。真言宗米山寺密蔵院は,慶安元年米山薬師の御供用として朱印12石(牧村)を給された古刹で,米山薬師の別当寺(現在は下牧地内)。ほかに真宗大谷派横超寺や薬王寺(現在廃寺)がある。鎮守は八幡社。戊辰戦争の際,小村峠越えをして中越に入ろうとした新政府軍が近村黒岩・松留・上中山村に宿陣をはり,地内は人馬継立ての仮継場となり多大な負担が強制された。このため同年200俵の拝借米願が出されている(木村家文書)。幕末から明治にかけて中村春作は地内に塾を開設,また,明治3年郡内一円の郷学校設立に関する意見書を提出している。明治7年郷倉に上小野小学校付属米山寺分校が開校,同17年米山寺小学校として独立(黒川村誌)。明治12年からは中頸城郡に所属。同21年の戸数68・人口443。同22年黒川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7314814
最終更新日:2009-03-01




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