ケータイ辞書JLogosロゴ 間瀬村(近世)


新潟県>岩室村

 江戸期〜明治22年の村名。三島【さんとう】郡のうち。間瀬浜ともいう。はじめ幕府領,元和6年三条藩領,元和9年幕府領,慶安2年村上藩領,宝永7年高田藩領,寛保元年白河藩領,文政6年からは桑名藩領。村高は,元和6年三条引渡郷村帳写(幸田重寛家文書)110石余,「正保国絵図」「元禄郷帳」ともに52石余,「天保郷帳」153石余。明暦3年検地帳によれば,村は海岸沿いに間瀬本村・間瀬新村・高屋村に分かれており,屋敷地所持者119・屋敷地のないもの50,反別は本田1町余・新田3町余・畑14町余。「白川風土記」によれば,家数300,「漁猟あるいは商船運送を業とす」とあり,産物は塩・魚類・蠣・海素麺・水松・大豆。漁民は漁業・田畑耕作だけでは生活ができず,江戸中期から盛んに他国稼ぎに出かけた。間瀬銅山は元禄14年江戸の田辺善兵衛・清水八左衛門が深ケ沢の「鍋割」で採掘したのが始まり,以後断続的に採掘された。「越後土産」には「間瀬石切」が見える。これは文化年間に年友村から来た与次兵衛・松右衛門の2人が石山を発見し,石材を出したのが始まりといわれる。天保8年生田万の乱の時,生田万らは間瀬村から船出をして,柏崎陣屋を襲撃した。鎮守は八幡社,寺院は真宗大谷派願竜寺(もと真言宗華蔵院)・同宗西蓮寺・浄土真宗本願寺派専光寺・曹洞宗海雲寺。明治6年間瀬小学校開校,同8年間瀬大火で焼失,同17年新校舎落成。同15年間瀬銅山は新発田【しばた】の大地主白勢成煕の直接経営に移る。同22年市制町村制施行による間瀬村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7315176
最終更新日:2009-03-01




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