ケータイ辞書JLogosロゴ 松ケ崎浜村(近世)


新潟県>新潟市

 江戸期〜明治22年の村名。蒲原郡のうち。松崎浜・松ケ崎・松ケ崎新田村とも称し,松崎浜村とも書いた。「正保国絵図」には島見浜ノ内松ケ崎とあり,元禄12年新田村枝郷新川新池除村年号間数方角之帳(新潟市合併町村の歴史史料編3)には,河渡新田村枝郷,寛永2年開発とある。はじめ新発田【しばた】藩領,宝暦4年幕府領,同13年からは再び新発田藩領。村高は,「天保郷帳」233石余。宝暦6年検地帳によれば,高233石余,反別は田8町余・畑40町余,名請人67(うち屋敷持60)。享保11年紫雲寺潟開拓に伴い境川の締切りが計画された。藩は領内水害をおそれて幕府に工事中止を訴えたが聞き入れられず,かわりに松ケ崎掘割工事が許可された。当時阿賀野川は当村で砂丘に阻まれ新潟湊で信濃川と合流していた。この砂丘を掘り割り阿賀野川を直接日本海に注がせようとしたのが工事の目的であった。これに対して新潟町は湊の機能に支障をきたすという理由で反対,結局定水面を超える分の水だけを堀割へ流す,万一堤防が破損した場合はすぐ元通り締め切る,将来堀割が破損し阿賀野川本流となっても湊にはしない,という条件のもとで同15年工事を開始,幅30間・全長385間の堀割が完成した。翌16年雪解け洪水により堀割は大破し,川幅は150間に広がり阿賀野川本流と化した。その後も川幅は広がり,耕地のかなりが失われ,阿賀野川によって村は二分された。阿賀野川右岸を本村,左岸を下山と称した。名主は寛文7年に惣右衛門が見え,元禄3年からは村山家が世襲。阿賀野川悪水抜堀割の開削によって,多くの耕地を失った代償として,河口部において淀口八統と呼ばれる鮭・鱒の大網(地引網)の特権的漁業権のうち6統分を与えられた。堀割開削以前,北国街道が通っていたが,阿賀野川本流となってからは船継ぎ場になった。信濃川―通船川―新井郷川と通る,河川交通の中継ぎ地点に位置し在郷町的性格も併せ持つことになった。慶応4年戊辰戦争で新政府軍が太夫浜村に上陸したのち当村に滞陣,西郷隆盛もいたという伝承が残る。この時庄内藩中老石原倉右衛門が長州藩に討ち取られたが,彼の所持したオランダ人のスネルとの武器・弾薬の売買契約書について日本で最初の領事裁判となった。鎮守は稲荷社。寺院は,真宗大谷派浄音寺・日蓮宗宝泉寺。明治5年村山三郎二宅に小学校開設,鏡淵意伯を校長として招いた。翌6年松浜校と称した(現松浜小学校)。同年,加治川の阿賀野川合流地点のやや下流にできた州を埋め立て5町余の宅地造成が行われ,翌7年完成,新屋敷と呼んだ。工事実施者は旧名主の村山得次郎,出資者は新潟町の廻船問屋湊元忠次郎であった。同9年六斎市開設許可。同11年内沼新田(現豊栄市)の鈴木虎八が新潟〜葛塚間に川蒸気船を就航させ,当村にも発着所が設けられている。同12年北蒲原郡に所属。同21年の戸数572・人口2,792。同22年市制町村制施行による松ケ崎浜村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7315214
最終更新日:2009-03-01




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