- JLogos検索辞書>
- 六日町村(近世)とは
「六日町村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 六日町村(近世) 江戸期~明治9年の村名庄内地方,庄内平野北部,月光川中流左岸に位置する地名の由来は,6の日に市が開かれたことによるはじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうちはじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領遊佐郷に属す村高は,元和8年の御知行目録では191石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに458石余,明暦2年の検毛帳(飽海郡誌)では,高452石余,同組興目2石余享和3年の御郡中村数家数人高控帳(遊佐町,斎藤家文書)によれば家数30軒・人数103村内の下高砂に鎮守深山神社があり,大山祇神を祀る同社の境内には大ケヤキがあり,太穴観音が祀られており,鳥居前には庚申青面金剛童子の石像がある庄内藩の籾蔵があり,村内の船津田【ふなつだ】には船着場があったという松山藩領小見村(現松山町)出身の医師佐藤意仙は,坂垣貞保に医業を学び,安政元年十日町村多右衛門宅で開業後,翌2年六日町村に移り順仁堂と称した天保年間鶴岡の定吉は当村の金治郎宅を借り,尻引・岡田・漆曽根村などの子弟に読み書きを教えた明治初年堀丑蔵は,4等郵便取扱役となって遊佐郵便局を開局(遊佐町史資料5)鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年八日町村ほか4か村と合併して遊佐町村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」