ケータイ辞書JLogosロゴ 桃川(中世)


新潟県>神林村

 室町期から見える地名。越後国岩船郡小泉荘のうち。文安元年10月13日の色部末長証状案写によれば,「桃川ニ五百苅」の開山寺領があった(米沢古案記録草案)。永正6年9月11日の耕雲寺領納所方田帳に「里之米年貢之分」として「桃川之彦三郎」とあり,ほかに桃川弥平四郎・桃川孫大郎・桃川左衛門大郎・桃川大郎二郎・桃川内山四郎左衛門などが見える(耕雲寺文書)。大永5年9月日の色部氏段銭日記写には「もゝかハのとの内」とある(米沢古案記録草案)。「色部氏年中行事」には桃河の御百姓が白米・黒米・畳裏・ひろ布などを色部館へ上納していること,「桃河之石動」が清酒・濁酒・たひへい・ふきなどを上納していること,正月朔日に桃河右馬丞,正月6日に桃河備後守,正月7日に桃河次郎左衛門尉が色部館に参上することなどが記されている(色部文書)。天正末年と推定される色部氏人夫等手日記には「桃河衆」として今作右衛門尉など5名の名前が記される(反町色部文書)。このほか,元弘4年2月18日付の色部長倫が女子千歳に宛てた譲状の田数5反の中に「壱所,桃河兵衛二郎屋敷」が記され(米沢古案記録草案),文明6年7月26日付色部朝長の評定所宛文書に「桃川掃部助方書状委細披見仕候」,天文10年7月27日付の鮎川家臣共15人から色部家臣15人に宛てた起請文の中に「桃河平八郎」の名がある(米沢色部文書)。なお,中世の桃川住の刀工長吉は名匠として名高い。南部百川の蛇行により囲まれた地に館跡,その東南約2kmの山に荒金城跡がある。宝篋院跡(現公民館)には南北朝期の板碑6基,吉祥寺境内には南北朝期の石仏と室町期の六面石幢(地蔵尊)がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7315878
最終更新日:2009-03-01




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