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- 桃川村(近世)とは
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桃川村(近世) 江戸期~明治10年の村名淡路国津名郡のうち淡路島中央西部,播磨灘に面する地名は,丘陵地崖地の間を流れる小河川をいう「ママ(崖)川」の転訛というまた,山桃の木が多かったことに由来するともいう(淡路草)天正14年の淡路国脇坂中務知行目録(脇坂文書)に見える「もゝ川」および,同年の淡路国御蔵入目録(同前)にある「桃川之内」は当地を指すと思われる慶長15年池田忠雄領,元和元年からは阿波国徳島藩領村高は,「郷帳下書」553石余,「天保郷帳」963石余,「旧高旧領」1,660石余丘陵地を背筋といい,川筋は当地域の約5分の3を占める天正18年伊江清兵衛が来住し,川筋を中心に開発,元和元年頃から奥村氏が播磨国から来住し,山間地を中心に開発したという(江井郷土誌)江井浦の藩邸を寛保3年桃川村分へ移築寛永4年伊江氏の開発田畑3町8反余元禄16年の検地帳に桃川村本村と「同村之内深山分」が見える元禄年間以降当村は東桃川と西桃川に分けられる寛永15年の高830石余,百姓50軒余(庄屋文書)元禄16年検地帳では田畑110町余,高1,604石余天正初年頃まで柳沢村下にあった地内の神社1,寺院3(真言宗2・法華宗1)明治10年垂井村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」