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- 山寺村(近世)とは
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![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治7年の村名伊那郡のうち天竜川上流右岸の段丘上に位置する永禄8年12月10日の諏訪社上社祭礼再興次第に「一,南御薗之郷より廻湛祭之時五貫文出し候」とある南御薗郷が当村にあたると思われる(諏訪大社文書/信史12)「天正高帳」には村名の記載がなく,「松樹園叢書」(清水家文書)に「信州高遠鳥居主膳正知行之内,東いなべ村・みその村・きつね島村・山寺村此四ケ村」と見え,また寛永16年の真虫平入会取極書(県史近世史料4‐1)に山寺村と明記されており,寛永13年鳥居忠春の高遠【たかとお】入部を契機に分村されたと思われる村名の由来は,寛永3年常円寺7世別伝不文和尚によって開創され,明治の俳仏毀釈で廃寺となった極楽寺の異称山寺によると思われる高遠藩領村高は,「正保書上」210石,「元禄郷帳」241石余,「天保郷帳」256石余,「旧高旧領」260石余天保7年の書上帳で家数81,人別435うち男218・女217,馬41安政6年小沢川に沿う南部が分村して御舞瀬村となったが,明治6年に再び合併した氏神である白山社・八幡社に伝えられるやきもち踊りは,江戸初期に流行した伊勢踊・近江踊の歌詞を残す天正9年に御子柴六左衛門によって境村から残された曹洞宗常円寺がある寛政8年以来当村に住んだ儒医中村昌玄にちなんだ昌玄坂がある昌玄は俳号を伯先,書斎名を坎水園と称した明治4年高遠県を経て筑摩県に所属同7年伊那村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治9年の村名中通り中部,釈迦堂【しやかどう】川西岸に位置する岩瀬郡のうち古くは牛袋【うしぶくろ】荘川中郷に属したというはじめ会津領,寛永20年白河藩領,慶安2年幕府領,天和2年大久保藩領,元禄13年からは長沼藩領村高は,文禄3年の蒲生高目録で256石,古領高長では260石,「天保郷帳」331石余,「旧高旧領」339石余宝暦12年の人数142助郷は会津街道長沼・勢至堂宿に出役鎮守は山王権現,明治5年日枝神社と改称須賀川城最後の城主二階堂大乗院が晩年を過ごしたという米山寺は,須賀川落城後北町に移り,薬王寺となる(白河風土記)明治9年牛袋村と合併して西川村となり,山寺は字名として現在に残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治7年の村名魚沼郡のうち小屋柄川左岸はじめ高田藩領,天和元年幕府領,文久元年からは会津藩領村高は,「天和高帳」24石余,「天保郷帳」25石余延享3年明細帳の家数2・人数13,農間余業は男は薪切り,女は縮織り,稲は庄内など4種,畑作は稗・大豆・小豆・大角豆・蕎麦・大根天和2年除地願いに観音の小祠の存在が認められる明治7年並柳村の一部となるなお,一説には同10年とされる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 山寺村(近世) 江戸期~明治12年の村名頸城【くびき】郡のうち桑取川左岸はじめ高田藩領,天和元年幕府領,寛保元年からは再び高田藩領村高は,「正保国絵図」47石余,「天和高帳」66石余,「天保郷帳」71石余神社は白山権現宮ほかに阿弥陀堂と薬師がある明治12年西山寺村と改称,あわせて中頸城郡に所属... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」