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- 夜麻郷(古代)とは
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![]() | 夜麻郷(古代) 奈良期~平安期に見える郷名平群【へぐり】郡のうち「和名抄」平群郡六郷の1つ高山寺本・東急本ともに訓を欠く当郷内に所在する法隆寺伝来の上代裂墨書銘(東京国立博物館蔵)の1つに「癸亥年山部五十戸婦」とあり,旧称山部里(郷)を延暦4年5月桓武天皇の諱を避けて山(夜麻)と改めたものか屋部も山部に基づくものと考えられる郷名は山部連(宿禰)氏が当地に居住したことにちなむ天平19年の法隆寺縁起資財帳(寧遺中)に,法隆寺所有の山林として「平群郡屋部郷一地 東限鳥方岳板垣嶺 北限渋谷至於保伊知比石庭 西限石庭至大谷須疑墓 南限寺領」とあるまた延長6年の御井寺勘録寺家貨財雑物等事(聖徳太子伝私記/続々群17)に「法名法琳寺 東限法起寺堺 南限鹿田池堤 北限氷室池堤 西限板垣峰 在平群郡夜麻郷」と見える板垣嶺(峰)が共通するので,法隆寺北方の山地から東方の法琳寺(法輪寺)・法起寺にかけての一帯が郷域と推定される現在の斑鳩【いかるが】町法隆寺・三井を中心とした地域ちなみに法隆寺に伝来した上代裂墨書銘には,7世紀後半と推定される「山部殿奴在形見」「山部五十戸婦」「山部名島弖古連公」などの名が見えるさらに正倉院蔵の法隆寺系統の幡にも「山部連公奴加致児恵仙」とあり,山部連氏が法隆寺と深い関係を有していたことが知られるまた和銅5年5月10日の日付を有する平城宮出土の木簡(平城宮出土木簡概報6)に「山部宿禰東人〈平群郡〉」の名が見えるこの木簡は大和国の宇太郡・平群郡など6郡から9人の在地豪族を急ぎ都へ召喚する際に使用されたものと考えられ,山部氏が平群郡の有力者であったことが知られる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」