- JLogos検索辞書>
- 四日町とは
「四日町」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
四日町村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町【よっかまち】 (近世~近代)江戸期~昭和46年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
四日町(近世~近代) 江戸期~昭和46年の町名明治17年から一時期山形を冠称江戸期は山形城下のうち寛永13年の領地目録(家世実紀)には見えないので,その後に成立した町とみられる最上氏時代には鍛冶町の内であったらしく,のちに市が立つようになって分離したものと思われる(山形市史)東は鍛冶町,西は歩町【ぶまち】につづき,南は小橋町,北は宮町に接する羽州街道は当町から北に向かう元禄年間の屋敷数35軒(うち検断・組頭・小走無役5,役屋敷30),家主32,借家・店借14,人数203,高82石余,百姓9,自身番所1,辻番所1,市日は4・14・24の4のつく日(山形城下新古銘細記/山形市史資料40)明和6年の「松の木枕」には「古物道具・古茶釜・お金沢山,御希望ならば此所にて御求めならるべし」とある(山形経済志料)天保13年の村山石高帳および「旧高旧領」には四日町・鍛冶町あわせて高104石余とある明治11年の一覧全図では,反別4町3反余,戸数46・人口215同22年山形市の町名となる昭和25年の世帯45・人口217昭和39年から同43年にかけての住居表示実施により一部が相生【あいおい】町・錦町・宮町1~5丁目・双月1~4丁目の各一部となり,残余は同46年の土地改良事業により,西崎・菅原・立道・中江などの各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町(近世) 江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町【よっかまち】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
四日町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は出羽国平鹿【ひらか】郡のうち秋田藩領江戸期に外町【とまち】といわれた横手町の中央部に位置する町名は定期市の開催日に由来する南から上丁・中丁・下丁に区分寛文9年の「横手絵図」には「四日町小路五間半」と街路幅が記載され,「享保郡邑記」では街路の長さ267間,家数118軒とある大町などとともに商業上の中心で,安政期「東講商人鑑」には繰綿木綿・呉服太物類・酒造店などの商人が多数登録大町とともに定期市が路上で開催(昭和21年当町のみとなり,同38年寺町に移転)される神社に稲荷社がある明治21年の上丁の戸数48・地価1,295円,中丁の戸数96・地価2,517円,下丁の戸数64・地価1,513円(秋田県9郡市町村分合下調案)同22年平鹿郡横手町成立後,横手町四日町上丁・横手町四日町中丁・横手町四日町下丁として町名は引き継がれ,昭和26年横手市四日町(上丁・中丁・下丁)となる同41年上・中・下の区分が廃され,住居表示実施により四日町となり,栄通町・大町上丁の各一部を編入し,現町域確定... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町新田(近世) 江戸期~明治22年の新田名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町(中世) 戦国期に見える町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
四日町の渡し【よっかまちのわたし】 北魚沼郡小出町四日町にあった渡し名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」