ケータイ辞書JLogosロゴ 四日町村(近世)


新潟県>小出町

 江戸期〜明治22年の村名。魚沼郡のうち。元和2年長岡藩領,同4年高田藩領,延宝9年幕府領,文久元年からは会津藩領。村高は,「正保国絵図」231石余,「天和高帳」197石余,「天保郷帳」247石余。慶長3年堀氏検地の村高は277石余と伝えられるが,「当荒れ」,「会津へ退転した給人・小者」などが所持した荒廃地は87石余となり,下倉城下の御蔵をあわせると32軒が空家となり,残った家は林昌寺・鎮守諏訪神社・百姓25軒であったという(四日町区有文書)。天和3年検地帳によれば,本田201石余・新田9石余,反別は田14町余・畑8町余。農業のほか,男は薪を切り,女は白布・縮・小白布等を織る。魚野川・破間川には船渡しがある。漁猟もかなり行われ,鮭・鱒・鮎・八ツ目鰻・岩魚・鰥・杜父魚・鮠・鴨・雁などをとる。享保13年の定免納合米112石余。宝暦5年の家数71・人数411,馬7。文化2年頃の本村の家数86,枝村谷内【やち】町の家数12,ほかに大石村の境界近くに家数7の集落がある。南端に船渡し場がある。中世からあった伝馬宿送,当町の市場は,寛永18年上田銀山が開掘され,小出島の広大な河港が利用されるようになると衰退し,さらに三国街道の浦佐宿と堀之内宿の中間に栃原峠の新道が開削され魚野川船道の新興の河岸場の小出島が銀山街道関門の宿駅に取り立てられると,いよいよ衰微した。諏訪神社,曹洞宗林昌寺がある。慶応4年の戊辰戦争では会津藩の町野源之助隊・山内大学隊が林昌寺を本営とし,閏4月27日未明から善戦したが敗退する。焼失家屋は35軒におよんだ。明治5年の租税は,本途米62石余,野手米1石余,山手米2升,川税13銭余,鮭税83銭余,材木・鼻不嚙舟税25銭,小役1円38銭余。同12年北魚沼郡に所属。同18年小出島学校から分離して四日町学校を設立。同21年の戸数151・人口750。同22年島町村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7316572
最終更新日:2009-03-01




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