ケータイ辞書JLogosロゴ 井波町(近世)


富山県>井波町

 江戸期〜明治4年の町名。礪波【となみ】郡山見郷のうち。加賀藩領。井波村ともいう。井波瑞泉寺の門前町として発展。在郷町として発展し,1日・3日・6日・8日の十二斎市が催された。慶長頃には有賀氏が,寛永期には篠島氏が代官として支配したが,改作法により礪波射水郡奉行支配下に入った。元和元年の村高は井波38石余・免10,井波畑方537石余・免3.3,西井波20石余・免3に分かれていた。正保3年には村高605石余・免5。寛文10年の村御印の村高650石・免6.2,鮎川役6匁・山役346匁・鍛冶役28匁・室屋役160匁・紺屋役90匁・油屋役16匁・布役562匁と定めた。天保5年の村高653石余(天保郷帳)。井波は畑が多く絹織物・蚕種・紺屋などの産業が発展し,日傭・諸稼ぎによって生計を立てる者が多かった。文化3年,戸数540,鍛冶屋・大工など職人99人,米小売人・古手屋・紺屋など商売屋209軒であり,神社は八幡宮・神明宮・諏訪社・不吹堂。寺院は瑞泉寺のほか,禅宗の常永寺,浄土宗の浄蓮寺,修験の大城寺・宝力房・大宝院があった。また用水の便は悪く溜池を利用。山方には23万歩の御林があった(能美組巨細帳)。田地割は明暦2年よりほぼ20年ごとに行われた。村肝煎は彦次郎・弥右衛門・九左衛門・六兵衛・与六郎・権之助・茂左衛門と続いた(井波町史)。明治4年3月,北川村・松島村・藤橋村・山見村を合併し,町長を置く町となったが,翌5年4月廃止され旧に復した。同5年の通称町名には八日町・六日町・三日町・下ノ川原・上新町・中新町・下新町・山ノ下町・入江町・今町・大宝院町・畑方町・戸板町があった。同年の戸数606・人口2,355(第六区里町諸記)であった。明治12年コレラが流行し,8月だけの1か月で24人の死者を出した。同19年にも再び流行し多くの死者を出し,字坂の下にコレラ堂を建てた(井波町史)。江戸後期に始まった瑞泉寺太子伝会は土用における礪波地方の著名な信仰行事である。また井波八幡宮の神輿の巡行は春祭りの行事として知られる。明治9年石川県,同16年富山県に所属。同17年井波町ほか4か村戸長役場に属す。同22年町村制による井波町の大字として井波・入会地・山下・本町・五領の大字に分かれた。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7317318
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ