ケータイ辞書JLogosロゴ 今石動町(近世)


富山県>小矢部市

 江戸期〜明治22年の町名。礪波【となみ】郡宮島郷のうち。加賀藩領。天正13年11月大地震が起こり,木舟城が崩壊,城主前田秀継夫妻の圧死によって城下町が解散。嫡子利秀が池田・葭原と呼ばれていた当地に引き移り,木舟城下の町民の一部を迎えて新しい城下町を築いた。この頃から今石動の地名が起こったといわれ,やがて当地内の町筋も整う。その後元和元年の一国一城令によって今石動城は廃された。寛文10年の村御印では村高209石・免6.7,小物成は布判賃3.8貫余,伝馬役1.1貫余,豆腐・室役470匁,紺屋・油役452匁,鍛冶役263匁など(今石動町物成事)。「天保郷帳」では村高295石余。軍事上・政治上重要な地点であったため町奉行が置かれ,また礪波郡下の年貢米の集散地として小矢部御蔵を建てた(小矢部市史)。当地は北陸道の交通要衝でもあり,宿場町として倶利伽羅【くりから】峠越えの人馬往来,物資の輸送に大きな役割を果たした。宿駅として今石動宿は慶長期に加賀藩から指定されたと思われる。また今石動宿の宿駅の充実と保護を図るため,寛永15年,藩は郡方支配であった埴生【はにう】村を今石動宿の加宿とし,毎月11日〜13日と21日〜23日の6日間は宿御用をつとめた。常備宿馬は寛文6年今石動は59匹・埴生は48匹,延宝9年今石動40匹・埴生41匹と減少している。宿泊休憩施設として加賀藩主は正保4年藩費で「御旅屋【おたや】」を建て,参勤交代・鷹狩の際利用した。江戸中期頃,御旅屋は廃止され,民家を本陣として使用するようになった。本陣のほかには脇本陣・旅籠・茶屋等の施設があった。倶利伽羅峠越えのため,馬借(重荷物)・歩荷【ぼつか】(軽荷物)が利用された。天明6年の「今石動町旧記」によると,馬借所8軒・金沢仲使【なかづかい】(歩荷)5人とある(小矢部市史)。元禄期の家数1,162(うち寺社15・山伏6),寛保元年の家数1,040・人口5,064(加賀藩史料5),寛政元年の家数1,074,安政元年の人口4,009(西野家文書)。町の産業としては八講布・菅笠などの生産・集散地であり,また鍛冶業が盛んで広くその名を広めた。また,鎮守は開町以来の愛宕大権現,すなわち愛宕神社であった(越之下草)。寺院には,永禄元年創建の曹洞宗永伝寺,天正10年移建の真言宗観音寺,宝永15年創建の浄土宗大念寺,天正12年創建の日蓮宗本行寺,真宗では,弘長元年創建の乗光寺,承元元年創建の道林寺,天文元年再建の聖泉寺,文明3年創建の迎向寺,大永3年創建の徳円寺,永正9年創建の長福寺,天文11年創建の仁真寺,元和元年創建の安立寺などがあった(三州地理志稿)。明治6年申義小学校(のちの石動小学校)が創立(礪波教育八十年史)。同9年石川県,同16年富山県に所属。同11〜19年は礪波郡役所が置かれた。同22年礪波郡石動町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7317356
最終更新日:2009-03-01




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