ケータイ辞書JLogosロゴ 菅寺村(中世)


富山県>細入村

 室町期から見える村名。婦負【ねい】郡阿奴【あぬ】荘のうち。応永21年2月に,仁和寺雑掌が「阿奴庄内猪谷,菅寺」2か村の安堵を訴えている(仁和寺文書/県史中)。仁和寺は窪寺惣領庶子の跡目として,足利義満が洪恩院殿御料所として進められて以来,知行してきたという。洪恩院は義満の菩提のために阿奴荘を御室法尊へ寄進しているが,斎藤次郎左衛門尉国則は楡原【にれはら】保内の両村として押領している。斎藤氏は楡原保内甕氏跡を望んでいるが,先に元亨年中に甕十郎の訴訟は棄却せられ,窪寺又次郎に下知されて以来,数十年窪寺が知行しており,のち闕所となり,洪恩院殿へ返されたのだという。それを楡原保内は数十年間不知行地なのに斎藤氏が今更競望するのは不義だという。そして斎藤国則非分の訴えの捨てられんことを,洪恩院殿の時と同じく知行を全うするべきの安堵を求めて訴えている。これに反して斎藤国則は楡原保内の猪谷・菅寺村の返還を訴えている(仁和寺文書/県史中)。それには,文和年中に曽祖父常喜が当保を拝領したところ,のち代官が窪寺三河守の跡と称して押領しているが,料所は「射水郡阿努中村窪寺三河守跡」であり,猪谷は甕庶子分,菅寺は甕十郎跡で,ともに婦負郡楡原保内であるという。そしてこの2か村が阿努荘内か,楡原保内かの糺明を訴えている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7318410
最終更新日:2009-03-01




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