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- 五位荘(中世)とは
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五位荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名摂津国島上郡のうち近衛家領建長5年10月21日の近衛家所領目録(陽明文庫所蔵/吹田市史4)の荘務本所進退所々のうちに「五位庄〈京極殿領内 在匡朝臣医師忠長朝臣〉」とあるのが初見本文書の京極殿は藤原頼通の子の関白師実のことで,師実の所領が伝領され,近衛家が本所として荘務を進退しており,菅原在匡などが荘務にたずさわったものと思われる次いで「後法興院雑事要録」の文明10年分に「五位庄卅石」と見え(同前),同13年分には「五位庄〈改代官,香西惣右衛門也,任料二□(百)疋□□〉」とあるが,「後法興院記」の文明12年7月27日条には「自昨日摂州住人西面三郎上洛,放出村并五位庄代官事遣補任了」とあり,近衛政家は文明12年の当荘の代官に西面三郎を補任したが,翌年には香西惣右衛門に替えたことが知られるなお天文2年10月20日の徳大寺家当知行目録(徳大寺家文書/富山県史史料編2)に「摂津国五位田」とあるのは当地のことかと思われる現在,高槻【たかつき】市芝生【しぼう】町に東五位田・西五位田の字名が残っており,芝生町内に比定されると思われるが,詳細は不明 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」